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日露戦争で得た満州権益の独占が火種となって日米戦争へ[9]

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張作霖爆殺事件

 昭和という時代は、「激動の昭和」とか「動乱の昭和」と言われているように、敗戦までまさに戦争と動乱に明け暮れた20年でしたが、その発火点となったのが張作霖爆発事件です。
 1928年6月、満州軍閥の首領張作霖の乗った列車が奉天、現在の瀋陽で爆破され死亡した事件ですが、時の内閣は長州出身の陸軍大将、政友会の田中義一内閣でした。
 誰がやったのか、日本国内でも「満州某重大事件」として大きな政治問題になり、田中内閣が総辞職に追い込まれましたが、国民の前に真相が明らかにされたのは戦争が終わってから、東京裁判の法廷でした。
 検察側の証人として証言台に立った元陸軍省兵務局長の田中隆吉少将が、「関東軍高級参謀河本大作大佐の犯行だった」と暴露したのです。それも関東軍司令官も承知している、いわば関東軍の総意によるものでした。

現代史に学ぶ 永原実歴史講座 張作霖爆殺事件と田中義一内閣 より引用。

関東軍とは

 関東軍というのは、日露戦争で日本のものになった旅順や大連のある遼東半島と、満鉄といわれる南満州鉄道の線路を守る警備を任務とした軍隊です。
 本来は番兵役である出先の軍隊が、勝手に火を点けて騒ぎを起こし、その混乱に乗じて満州を武力占領してしまおうとした。
 昭和の陸軍が、政治や外交を押し退けて出てくる、そのきっかけとなったのが、この張作霖爆殺事件でした。
 しかも、河本大佐など関係者を軍法会議にかけて厳正に処罰しなかったため、満州事変から支那事変、さらには太平洋戦争へと、軍部の暴走を許す大きな原因にもなったと言われています。
 現代史に学ぶ 永原実歴史講座 張作霖爆殺事件と田中義一内閣 より引用。

 しかし、日本が太平洋戦争へと道を踏み外す原因は、もっと広い視野から考察する必要があると私は考えます。本稿はその視野からの解明を試みるものです。後ほど詳しく述べていきます。

辛亥革命(1911年)によって建国された「中華民国」の全国統一の潮流

 1911年に中国では孫文らが清朝の腐敗と列国の帝国主義に対して、清朝を打倒するため辛亥革命が起こし、清国が倒されて共和制が敷かれます。その翌年1912年には南京を都として「中華民国」がつくられました。
 この時から中国が、新しい国家として登場し、日本のとるべき政策に大きく影響してくるようになります。
 しかし中国は簡単に統一されたわけではなく、方々にいた軍閥がぶつかり合い、国民党軍と戦ったり、また国民党軍内部でも勢力争いがあったり、さらに少し後に成立した共産党が国民党軍と衝突したりで抗争が絶えず1912年の大正時代に入っても依然として中国は混乱を続けていました。
 それも1920年くらいになると、孫文を大将とする広東軍と蒋介石を大将とする江西軍とが一緒になって,[国民政府軍」として大勢力をもち、次から次へと大小の軍閥を叩きつぶして統一へと向かっていきました。
昭和史 半藤一利著 より引用。
 そして蒋介石が中国統一の軍事行動・北伐を起こしたのが、1926年7月です。中国民衆のナショナリズム、反日抗日運動も激しくなっている時でした。

日本では政党内閣制、二大政党時代が形成されつつあった

 日本では「憲政の常道」という政治的な枠組み、つまり政党内閣制、二大政党時代が形成されつつあった時で、その中で、そうした新しい中国情勢に日本がどう対処するのか。
 ことに旅順や満鉄など、日本が満州に持っていた権益をどうやって守り広げて行くのか、この外交方針をめぐって、憲政会、政友会の二大政党が激しく対立していました。

現代史に学ぶ 永原実歴史講座 張作霖爆殺事件と田中義一内閣 より引用。

満州の大軍閥張作霖

 その頃、東北地方つまり満州の大軍閥として君臨していたのが張作霖でした。満州には小軍閥は沢山ありましたが、全体はこの張作霖が抑えていたのです。
 日本は張作霖の後ろ盾となって、張作霖を満州の事実上の支配者に押し上げてきました。その張作霖の下で、満州を半ば独立の状態に置いて日本の権益を守る。これが大正始め(1912年が大正元年)からの歴代内閣の方針でした。
 つまり、中国は分割状態の方がいい、一つに統一してほしくない。これが日本の本音でした。
 満州はいくら張作霖が支配していても、中国領土であることに変わりありませんから強力な中央政権ができれば、日本の権益も不安定なものになりかねません。中国統一を邪魔することで日本の権益を守り、また拡張させることを期待したのです。

現代史に学ぶ 永原実歴史講座 張作霖爆殺事件と田中義一内閣 より引用。


 

張作霖の北京入り

 ところが、日本が育ててきた張作霖の力があまりにも大きくなり過ぎ、おいそれとは日本の言いなりには動かなくなってきました。 
 張作霖は1926年4月奉天軍を率いて北京に入りました。そして1927年6月には政府を組織し、大元帥として北は黒竜江から南は揚子江に及ぶ広大な地域に号令するまでになりました。こうなると、中国全土に号令したいという野心も出てきます。
 しかし、反日、抗日運動が燃え盛っている中では、今までのように日本にだけ頼っていたのでは、肝心の民衆の支持が得られません。
 張作霖は、満鉄と並行する鉄道を作ろうとしたり、奉天省内の日本領事館の設置を拒否したりして、反日的な色彩を強めていったのです。
 満蒙の日本の権益と治安維持をどうやって守るかについて、内閣の首班田中はあくまで張作霖を利用しようとしたのに対し、政友会副大臣の森と関東軍は、「もう張作霖はダメだ。そんな手緩いことをせず、日本の投資と技術で直接満蒙を開発すべきだ」と主張します。
 結局、森と関東軍のラインで張作霖は爆殺されることになりますが、田中はこの爆殺を感知しいませんでした。結局、田中は彼の出身である陸軍からも見限られたのです。

現代史に学ぶ 永原実歴史講座 張作霖爆殺事件と田中義一内閣 より引用。


 

田中・蒋介石会談とその後の済南事件

 蒋介石は日本に留学していたことがあるので、日本の軍人、政治家にも多くの知り合いがいました。そこで、日本の有力者に国民革命の意義を認識させ、協力を得ようと来日しました。
 蒋介石は1927年10月5日に内閣の首班田中と箱根で会談します。蒋介石は「中国革命の目指すところは全国統一である」と述べたうえで、「中国統一が完成した暁には、日本が承認すること。また満蒙における日本の特殊権益はは認める」と最大限の譲歩を示しました。
 しかし、田中には張作霖を抱き込んで満蒙に鉄道を増設する計画があったのです。それは、万一ソ連と戦争になった時、いち早く北満州のハルピン、チチハルに軍隊を送る戦略鉄道でした。田中はとうとう「北伐を支持する」とは言いませんでした。
 蒋介石は失望ぶりを日記に書いています。「日本の協力は問題外である。田中は我々の革命を望んでおらず、北伐を妨げることを躊躇せず、統一中国を容認できないことは余にも明らかである」
 蒋介石が日本から帰国して革命軍総司令に復帰し、北伐再開を宣言し北京を目指し進撃を開始したのは1928年4月7日です。これに対して田中内閣は、山東省の居留民の保護を名目に第2次山東出兵します。
 一方、北伐軍は、張作霖が30日夜撤退した山東省の省都である済南に無血入城します。そこで北伐軍は日本軍と城壁一つを隔てて対峙する異常事態となります。この時、北伐軍が日本居留民を殺害した済南事件が起きてしまったのです。

現代史に学ぶ 永原実歴史講座 張作霖爆殺事件と田中義一内閣 より引用。


 

陸軍中堅将校による武力で大陸の主導権を握ろうとするでっち上げ情報

 毎日新聞は「天津特報」で、「虐殺された邦人は280名に達した」、また「北京特報」で「裸体で凌辱虐殺された婦人等酸鼻を極めている」と伝えています。
 まあ、こんな記事を読めば、誰だって憤慨するのは当然なのですが、「毎日新聞百年史」によると、酒井少佐が出兵を拡大させるため、謀略的な情報操作をしたものだったというのです。
 実際は日本人軍の戦死10名、在留邦人の犠牲者も12名、それも日本軍の警備地区への引き上げを無視して、現場に留まったモルヒネ・ヘロインの密売者でした。
 酒井は太平洋戦争開戦直後、第23軍司令官として香港を攻略したのですが、武力で大陸の主導権を握ろうと、でっち上げ情報を流し続けたというのですからひどいものです。
 もう張作霖爆殺事件、満州事変の前から、目的のためには手段を選ばない。これが陸軍中堅将校の考え方になっていたのです。
 そして思惑通り、8日には名古屋の第3師団派遣と第3次山東出兵になりましたが、この出兵が蒋介石の国民政府に排日政策をとらせるきっかけになったのですから、まさに日本の歴史の分岐点でした。

現代史に学ぶ 永原実歴史講座 張作霖爆殺事件と田中義一内閣 より引用。

張作霖は北京から脱出するが、その特別列車が爆破され死亡する

 蒋介石軍の主力は、日本軍との衝突を避けて済南を迂回して北上し、北京に迫りました。田中首相にとって問題は「蒋介石と一戦を交える」と言って北京から一歩も引かない構えを見せている張作霖です。
 張作霖の劣勢は明らかで、敗れれば田中の満蒙政策は消滅してしまいます。そこで、詳しい事実は省略しますが、田中は張作霖に北京を脱出して奉天まで来るよう圧力をかけるのです。
 切羽詰まった張作霖が、20両の特別列車で北京を脱出したのは1928年6月3日の午前1時50分でした。翌日の4日午前5時半、列車が奉天駅まであと10数分の藩陽駅にさしかかったところで爆音と共に爆破され、張作霖は54歳の生涯を閉じたのです。

現代史に学ぶ 永原実歴史講座 張作霖爆殺事件と田中義一内閣 より引用。

張作霖爆殺に関東軍が関与していたこと知った田中は愕然とする・・

本稿の冒頭で述べたように張作霖爆殺は、関東軍高級参謀河本大作大佐の犯行でした。それも関東軍司令官も承知している、いわば関東軍の総意によるものでした。
 河本が満州で目の当たりにしたのは、張作霖反日の気炎でした。河本は「満蒙問題の解決は外交手段ではダメだ。武力発動によるほかない。そのためには張作霖を倒す以外にない」と思ったのです。
 これが「関東軍の起こした事件だ」と田中が知ったのは、鉄道大臣の小川平吉から聞いた時です。
 田中首相は小川から話を聞いて愕然とします。陸軍大臣の白川義則もなかなか信じようとはしません。陸軍省が本当に関東軍がやったのか問い合わせてもラチが明きません。
 白川が憲兵司令官を現地に派遣して真相が明らかとなり、田中首相に報告されたのは10月8日のことです。
 元老の西園寺は、田中首相から報告を受けて、徹底調査して全貌を公表し、責任者を軍法会議にかけて厳罰に処するように強く求めました。
 西園寺に「とにかく陛下にだけは申し上げておけ」と釘を刺された田中は12月24日に「事件には日本の軍人が関与しているようであり、法に照らして厳然たる処分を行います」と上奏したのです。

現代史に学ぶ 永原実歴史講座 張作霖爆殺事件と田中義一内閣 より引用。


 

河本の犯行を「公表するな」の大合唱

 天皇から「軍紀は厳格に維持するように」と注意を受けた田中は、白川陸相に河本大佐の軍法会議を要求しましたが、陸軍の組織を挙げての抵抗は猛烈でした。河本も会員となっている陸軍中堅将校の国策研究会「二葉会」は、「河本を守れ」と陸軍上層部を突き上げ、軍法会議反対運動を展開したのです。
 「二葉会」には後に首相となる東條秀樹も加わっています。のちに陸軍をしょって立つ有能な中堅クラスが二葉会というグループをつくり、その9名全員が集まって「張作霖爆殺事件をなんとかごまかそう、うやむやにしてしまおう」と相談をしているのです。
 内閣でも、小川鉄道大臣と森恪が中心となって各閣僚に公表反対を説いて回りました。日本が中国で承認していたのは、蒋介石の南京政府ではなく、張作霖の北京政府でしたから、他国の元首の地位にある者を日本の軍人が暗殺したと公表すれば、日本の信用はガタ落ちになり、満州での日本の地位も危うくなるというのです。

現代史に学ぶ 永原実歴史講座 張作霖爆殺事件と田中義一内閣 より引用。

田中内閣による正式調査結果の発表

 これら「公表するな」の意見に押し切られて、田中内閣は事件から1年後の1929年6月26日、正式調査結果を発表しました。「満州事件調査の結果、日本人の関与する証拠を認めず。ただし守備権放棄に対しては当局の責任を問い、それぞれ処分せり」。
 こういった内容で、関係者の行政処分は、村岡巻頭司令官の予備役編入、河本大佐の停職・・・です。
 翌日、田中首相は参内して上奏しました。「いろいろ取り調べましたが、日本の陸軍には幸いにして犯人がいないということが判明いたしました。しかし警備上責任者の手落ちがあった事実については、これを行政処分をもって始末いたします」。
 しかし昭和天皇は、「それでは前と話が違うではないか。辞表を提出してはどうか」と、強い語気で叱責されたのです。田中内閣は7月1日総辞職しました。

現代史に学ぶ 永原実歴史講座 張作霖爆殺事件と田中義一内閣 より引用。

河本は停職処分されるも、その後「陸軍ぐるみ」で河本の面倒を見る

 田中内閣総辞職の日、河本の停職処分も発表されましたが、理由は「爆殺現場の警備に中国憲兵の配置を許した」という警備担当参謀の責任を問われたものでした。
 停職処分後、いわば「陸軍ぐるみ」で河本の面倒を見たことは、満鉄理事、満州炭鉱理事長、山西産業理事長という河本の経歴が、何よりも雄弁に物語っています。

現代史に学ぶ 永原実歴史講座 張作霖爆殺事件と田中義一内閣 より引用。

満州の権益は難かしい問題をはらんでいました

 河本大佐に具現されている日本陸軍の考え方は、ロシアが権益を奪い返しに再び南下してくる可能性がある。満州は日本の国防のための最大の防衛線、生命線である。何としてでも守らなければならない。
 その生命線を守るには、政治家による外交といったようなものではラチが明かぬ。外交など介さずに、「日本が満州を武力占領すべし」、と決断したのでしょう。
 しかしこの決断は、傲慢かつ短絡的なものでした。なぜなら、日本が得た満州の権益は、中国の領土の中にあるということ、さらには唐帝国以後1000年以上維持されたパックス・シニカに意を用いていないからです。
 この「日本が直接武力占領すべし」という傲慢さは、1931年の満州事変、1937年に始まる泥沼の日中戦争に連なり、最後には日本を1945年の敗戦に至らしめるのです。
 それはさておき、日本が得た満州の権益について考察するには、それがパックス・シニカを破壊して得たものであることを認識しておかなければならないと思われます。
 パックス・シニカとは,「シナの優越」で平和が保たれた状態のことですが、日本は日清戦争で「シナの優越」を破壊し、日露戦争でロシアが持っていた中国の南満州における権益を承継しました。
 そこでまず、日本は北満州に権益を持つロシアと直接対峙するようになり、ロシアが再び南下するのを防ぐことが国是となりました。
 さらにその上、中国の統一にどう対応するのかという、難しい問題に対処しなければならなくなってきたのです。
 というのは、中国が再び統一されて以前のような大国になると、パックス・シニカが回復して、日本は直接ソ連の南下に対面することはなくなることも予想されます。
 その替り、日本は満州の権益を甘受できなることも考えておかなければならないでしょう。

パックス・シニカ

 パックス・シニカとは、「シナの優越」で平和が保たれている状態のことです。これが有効に働いて日本や朝鮮半島の平和が維持された期間は、パックス・ロマーナやパックス・ブリタニカが有効だった期間よりはるかに長く、かつ安定したものだったといえます。
 パックス・シニカの第1の条件は中国の圧倒的な優越です。国土人口の大きさ、歴史の長さからくる文化水準、政治力、経済力、軍事力は周辺諸国の比肩を許しません。
 第2は、中国固有の宗主藩属関係で、一般的にいって中国は周辺の諸民族に対しておおむね宗主権を要求するに留まり、中国の脅威とならないかぎりあえて征服しようとしないという傾向があります。
 ともあれ大国が圧倒的な力を持ち,かつ、自制することを知っている。それによって安定した平和が維持されることは自明の理です。
 ところで、この大国の自制は、漢民族の歴史において常にそうであった訳ではありません。漢帝国の時代には、漢の武帝は漠北を伐ち、嶺南を平定して、ほぼ現在の漢民族の住んでいる地域を征服しました。膨張国家だったのです。
 朝鮮半島についても、北半分を征服して、朝貢国としないで郡県を置いて直接支配しています。
 外征を不徳とする中国の思想が確立するのは、隋・唐のころなのです。詳しいことは省略しますが、この思想が確立する主たる原因は韓民族の抵抗にあったといっても言い過ぎではありません。
戦略帝思考とは何か 岡崎冬彦著より引用。
 隋の煬帝は、帝みずから30万の大軍を率いて高句麗征服に出撃しますが、遠征軍のうち、帰ったのはわずか2700人という大敗北を喫し、隋王朝は没落していきます。
 唐は、新羅と同盟して、高句麗と百済を滅ぼしますが、最後には新羅をも滅ぼそうと侵略します。しかし、676年に唐の水軍は新羅の水軍に伎伐舗(百江)で全滅させられ撤退したのです。
 このパックス・シニカと繋がる政策を打ち出しているのが、幣原喜重郎の外交政策でした。幣原は外相就任演説で、「日本としては同情と忍耐と希望を持って、支那国民の努力を望み、統一の成功を祈る」と、意思表明しています。

外務大臣幣原喜重郎の考え方

 田中政友会内閣は、枢密院の協力を得て1927年4月に若槻憲政会内閣を倒して発足した内閣です。政友会も枢密院も共に、若槻内閣の外相幣原の外交を軟弱・弱腰だと批判していたのです。幣原外交とはどのようなものだったのでしょうか?
 幣原は5代の内閣で通算5年3か月の外相を務めています。その幣原外交に一貫しているのは、寛容主義、自由主義であり、国際協調による平和共存です。幣原が最初に外相になったのは1924年6月、憲政会の加藤高明内閣の時です。 幣原は外相就任演説で、「日本としては同情と忍耐と希望を持って、支那国民の努力を望み、統一の成功を祈る」。こう演説して、中国統一の希望と内政不干渉の中国政策を明らかにしました。
 また、外人記者団との会見でも「日本の外交は平和、正義、名誉を基礎とする」と話しています。
 幣原外交が理想主義外交だと言われる所以ですが、それじゃ理想を求めるだけの空念仏だったのかというと、決してそうではないのです。
 とにかく武力を持ち出さない。経済を通じてお互いの利益、良い関係を求めて行こうという、むしろ現実的な経済外交が特色でした。

現代史に学ぶ 永原実歴史講座 張作霖爆殺事件と田中義一内閣 より引用

中国貿易を盛んにするのが良い

 幣原が考えたのは、中国貿易を盛んにすることでした。日本の前途を国土の膨張、領土拡張で解決しようとすれば、国際協調を破ることになる。
 中国には4億5千万の民衆がいる。日本の工業力でまかなうには手ごろなマーケットであり、日本は距離的にも中国に近く、運賃、賃金の面でも、日本が一番競争力が強い。中国を日本の経済立国の基礎にする。これが幣原外交の基本理念でした。
 幣原が中国に内政不干渉を唱えたのも、中国統一を期待したのも、それが日本の中国貿易に一番いいと考えたからです。

現代史に学ぶ 永原実歴史講座 張作霖爆殺事件と田中義一内閣 より引用。

幣原が外相就任早々にぶつかった難問

 ところが、幣原外交がいくら「内政不干渉」を看板にしていても、現実に内戦が起こり、それが満州に影響しそうな事態になってくると、そうは簡単にいきません。 
 幣原が就任早々にぶつかった難問は、1924年9月中旬に始まった第2次奉直戦争です。奉天を本拠とする張作霖と直隷派といって北京など河北省を本拠にする呉〇〇との内戦ですが、張作霖はすぐ日本政府に援助を求めてきました。
 奉天総領事も「もし張作霖が敗れて、直隷軍が満州に侵入してくれば日本の権益が脅かされる。実力行使もやむを得ない」と、意見具申してきました。
 しかし幣原は「絶対不干渉主義」をとり、総領事にも「あくまで公正な態度で一党一派に偏するような措置はとるな」。
 10月に入って張作霖の苦戦が続くようになると、国内でも幣原外交に批判が高まってきました。
 貴族院の強硬派が「幣原の内政不干渉は米英に追随するものだ」と非難すれば、東京では国民大会が開かれ「無為無策外交、軟弱外交だ」と気勢を挙げたのです。

現代史に学ぶ 永原実歴史講座 張作霖爆殺事件と田中義一内閣 より引用。

閣内でも幣原批判が強まるが幣原は怯みません

 閣内でも幣原批判が強まり、10月23日の閣議は「張作霖援助のための出兵やむなし」が大勢を占めました。それでも幣原は譲りません。
 加藤高明首相は一旦閣議を休息して幣原を別室に呼び、「妥協の余地はないか」と譲歩を促したのですが、幣原は「出兵すれば辞職する」。外相辞任は内閣崩壊につながります。
 閣議は結論を出さないまま散会しましたが、その日の夕方飛び込んできた一通の急電が加藤内閣を総辞職から救ったのです。直隷派の内部でクーデターが起こり戦局は逆転して直隷派は総崩れとなり日本も出兵する必要はなくなったのです。
 実はこのクーデターは、東京裁判で死刑になる関東軍参謀の土肥原賢二中佐の画策でした。土肥原は幣原の不干渉主義に強い不満を持っていましたし、張作霖の方はもいつもと違って助けにきてくれない日本軍に慌てました。
 土肥原は百万円という買収資金を張作霖のために出させ、そのお金で対立する直隷派の将軍にクーデターを起こよう説得したのが功を奏したのです。国家予算が15億円の頃の百万円ですから大変大きなお金でした。

現代史に学ぶ 永原実歴史講座 張作霖爆殺事件と田中義一内閣 より引用

1925年の「5・30事件」

 幣原の外相時代には、中国では内戦は続いていましたし、反日抗日の運動も高まるばかりです。ソ連共産党の国際組織コミンテルンも、これに乗じて中国への働きかけを強めていました。
 中国では、第1次世界大戦後の不況で街には失業者が溢れていました。不況下の低賃金、長時間労働の過酷な労働に抗議して、1925年2月上海の日本紡績がストに突入したのをきっかけに、イギリスの工場にも波及し、5月30日には上海全市を巻き込む騒ぎに発展しました。
 イギリス官憲がデモ隊に発砲し13人の死者を出したものですから、コミンテルンの指導による反帝国主義運動は全国規模に拡大し、広東ではストが17か月も続きました。
 イギリス政府は日本に共同出兵を日本に提案してきましたが、幣原は「いったん政治意識に目覚めた中国のナショナリズムを、力で抑え込むのは不可能だ。かえって運動を激化させるだけだから、日本としてはこの際、居留民を危険地域から一時避難させる考えだ」。こういって出兵を断ったのです。
 イギリスは単独で武力鎮圧を続け、広東では169人の死傷者を出しましたが、日本国内では、相変わらず幣原批判が強かったのです。政友会が「居留民を非難させるなんて弱腰ではなく、軍隊を送ってでも日本人を現地で保護すべきだ」。出兵のボルテージを高めているところへ、1926年に中国統一を目指す蒋介石の北伐が始まり、1927年3月には南京事件が起こってしましました。

現代史に学ぶ 永原実歴史講座 張作霖爆殺事件と田中義一内閣 より引用

1927年の南京事件(1937年の南京事件とは異なります)

 これは蒋介石が中国統一の軍事行動を起こした時の話です。蒋介石の国民革命軍は、南の広州から揚子江沿いの上海、南京、武漢を目指し三軍に分かれて北上したので、北方軍閥を征伐する「北伐」と言いますが、事件は1927年3月24日、革命軍が南京に入城した時に起こりました。
 勝ち誇った兵士たちが各国領事館や教会、学校へ乱入し、略奪、暴行でイギリス、アメリカ人などに6人の死者を出したのです。
 日本政府も揚子江に停泊中の砲艦から12人の陸戦隊員を領事館に派遣していましたが、何といっても多勢に無勢です。領事から「武力衝突になれば皆殺しになる。抵抗しないでくれ」と頼まれ、やむなく武装解除に応じました。
 死者こそ出さなかったものの、領事館に避難していた日本人女性が裸にされて市内を引き回される悲惨な事件も起こりました。
 新聞が連日「残虐ー筆舌に尽くしがたい大略奪」と書き立てれば、野党政友会は「若槻内閣弾劾」を決議、東京などの六大都市の商業会議所も「中国に強硬態度で臨め」と要求したのです。
現代史に学ぶ 永原実歴史講座 張作霖爆殺事件と田中義一内閣 より引用
日本ではこのように憤慨されましたが、広大な大陸は、スケールの大きい人物を生み出しますが、反面、憎悪の振幅の幅が大きく、大陸に出向いて事を成そうとするのなら、婦人が裸にされて市中に引き回されるといったような事態は覚悟しておかなければなりません。ましてや日本は、1915年に「対支21カ条」を武力で押し付けて中国人の誇りを大きく傷付けているのですから。
 それはさておき、陸戦隊の無抵抗は幣原外相の指示ではなく、現地領事のとっさの判断だったのですが、「日の丸が泥に踏みにじられた、こうした権威の失墜は、幣原外交の不干渉主義が生んだのだ。軟弱外交の責任だ」。幣原は四方八方から非難攻撃を浴びました。

現代史に学ぶ 永原実歴史講座 張作霖爆殺事件と田中義一内閣 より引用

蒋介石失脚を狙ったコミンテルンの謀略だった

 実は、1927年3月の南京事件も、「蒋介石の失脚を狙ったコミンテルンの謀略だった」と言われます。詳しい話は省略しますが、武漢には共産党の影響力の強い臨時政府が樹立され、蒋介石の首席廃止を宣言させましたが、効き目がないどころか、蒋介石の威名は高まるばかりです。
 このままでは、中国統一成功は全て蒋介石の手柄になってしまう。失脚させるには、国際的信用を落とせばよいと、共産党員が勝ち誇った兵士を先導し、各国領事館を襲撃させたものだったのです。共産党員は隠れ蓑として国民党に入党していたのです。

現代史に学ぶ 永原実歴史講座 張作霖爆殺事件と田中義一内閣 より引用

幣原の節を曲げない気骨

 現地では、日本をはじめ英米仏伊の5大国講師会議が開かれ、蒋介石に謝罪と賠償、責任者の処罰を求め、覚書にはタイム・リミットを付けることを決定しました。
 この決定に真っ先に「待った」をかけたのが幣原です。幣原は、中国を統一できる信頼すべき指導者は蒋介石以外ないと思っていましたし、蒋介石が責任を取ると言明している以上、その自主性に任せるべきだ。タイム・リミットを付けた覚書は威嚇であり、報復手段としての砲撃、封鎖にも反対しました。
 やがてアメリカ政府も同調し、蒋介石の自主的解決に同調することになりましたが、納まらないのが日本国内です。
 政友会は1927年4月15日、若槻内閣総辞職の2日前ですが、臨時大会を開いて田中義一総裁が幣原外交を批判しました。「徒に内政不干渉に名を借りて、手を拱いて傍観することは、明らかに帝国の東亜における地位の放棄である。東亜の盟主たる日本は、対支外交の刷新を期さねばならぬ」。
 田中が盛んに口にした「東亜の盟主」。日本が一等国になった、五大国になった。そう自負している国民は多かったし、中国に対しても「チャンコロ、チャンコロ」と、一段低く見る蔑視意識が強かったのです。
 田中内閣は、幣原外交を批判し、中国に対して「強硬態度で臨め」と、まさに国民期待の中でスタートしたのです。田中は、幣原の国際協調主義・平和主義に対し、「日本の国是は武である」。日本の武力を示すことは日本の名誉であり、目標でもあると考えていました。
 現代史に学ぶ 永原実歴史講座 張作霖爆殺事件と田中義一内閣 より引用

 しかし田中は結局、満州の権益の維持・拡大にあくまで張作霖にこだわり関東軍に見限られてしまいます。そして関東軍は、満州の権益の維持・拡大に日本の武力による直接支配を目指し1928年6月の河本大佐による張作霖爆殺に及ぶのです。
 満州の権益維持・拡大のために、田中は軍閥張作霖を利用する、関東軍は日本の武力による直接支配を目論む、この二つの戦略はいずれも歴史の流れから外れており結局失敗に終わりました。 
一方、幣原は、「日本としては同情と忍耐と希望を持って、支那国民の努力を望み、統一の成功を祈る」という信念の下、蒋介石による中国統一見抜き、軟弱外交と批判されながらも日本が武力を持ち出すことを控えました。これこそ歴史の流れに沿った正しい戦略だったのです。 
 だからこそ幣原は、1945年の敗戦後、内閣総理大臣として復活を遂げるのです。そして日本が戦後の繁栄に踏み出す体制の基礎を築いていきます。
 

アングロ・サクソンとの協調

 日本は開国から40年間と太平洋戦争終了以後の、アングロ・サクソンと協調して歩む時は、アングロ・サクソン世界の持っている情報がよく入ってくるので素っ頓狂な間違いは犯さないのだと思えます。
 いったんこれが切れて1930年代の日本のようになると、もう世界の情勢がどうなっているか常識的な判断を失って、八紘一宇だとか、訳の分からないことを口走るようになるのです。

戦略帝思考とは何か 岡崎冬彦著より引用。

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