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日露戦争で得た満州権益の独占が火種となって日米戦争へ[8]

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日露戦争における先輩達と同じような戦略的発想は、ワシントン会議(1921年)ではまだ残存していた

 日本はロシアの脅威の性質を正確に認識し、日英同盟を結び、日露戦争にふみ切って、これに勝ちます(1905年)。この戦争での日本軍の強さ、とくに日本海海戦で示された日本海軍の精強さは、世界の脅威となります。おそらくは日本人自身も、こんなに戦争に強いと自分で思わなかったほどのみごとな戦いぶりでした。
 しかしこのことが、かえってその後の日本国民に、日露戦争で明治の先輩たちが心血を注いだ戦略的発想を忘れさせ、戦闘能力偏重思想に陥らせてしまうのです。

戦略的思考とは何か 岡崎冬彦著より引用。

 それでも、明治の先輩たちと同じような戦略的発想は、ワシントン軍縮会議(1921~22年)においてはまだ残存していました・・。

ワシントン軍縮会議(1921~22年)

 第一次世界大戦後には、世界平和の理想のもとに安全保障と軍縮をめざす会議がしばしば開かれ、日本も列強勢力と妥協して国際協調外交に努めた。そして、ワシントン会議はアメリカ大統領のハーディングの提唱で開かれた。
海軍軍備制限条約では、主力艦の保有比率を
 アメリカ・イギリスが   5
 日本が          3
 フランス・イタリアが   1.67ととりきめ、同時に
四か国条約で、
 アメリカ・イギリス・日本・フランス4か国に太平洋属領の利権尊重
 なお、四か国条約により日英同盟は破棄された
九か国条約で、
 上記4国にイタリア・中国・ベルギー・オランダ・ポルトガルが加わり
 中国の領土・主権の尊重や経済活動の機会均等を約した。

現代史に学ぶ永原実歴史講座 第16回 ワシントン会議と加藤友三郎より引用

6割海軍に対する日本の不満

 6割海軍は、日露戦争に勝って一等国になったと自負している日本国民に対して米英が日本に屈辱を押し付けている、と憤慨させます。海軍も譲歩できるぎりぎりの線は7割だと考えていました。
 指摘されているように、ワシントン会議は、日本の膨張に恐れを抱いていた米英が共同で、日本の膨張を抑止する枠組みを作り上げて、日本にその同意を迫ったものなのです。
 

ワシントン会議と日米関係

 ペリーの来日から真珠湾攻撃にいたるまでの日米関係は、日露戦争(1905年)をピークとして、親善関係から対立関係に転換していることが展望できます。
 日露均衡論を基礎とするルーズベルト大統領のポーツマス会議での対日友好感情は、その後しだいに冷却し、アメリカは、朝鮮・満州・中国へ積極的に進出しはじめた日本の膨張に脅威を感じました。
 だが、第一次世界大戦の終結まで、イギリスは対独戦争に日本を動員する必要から、アメリカとは立場を異にし、日本を抑制することには消極的であった。
 そこで対日政策について、アメリカとイギリスは足並みが揃わず、そのため日本の中国進出は有利で、中国に対し21ヶ条のの要求を強制する(1915年)ことができた。
 日英同盟の成立当初の標的はロシアであり、ついで日露戦争後はそれがドイツに移ったが、第一次世界大戦の終結とともに、同盟の標的がなくなると、イギリスは内心、同盟国日本の膨張に深刻な不安を感じていた。
 そこで、1921~22年に開かれたワシントン会議は英米が歩調を合わせて日本に対する共同行動をとることができた、はじめての機会となった。
 海軍軍縮条約・四か国条約・九か国条約の三つを支柱として成立したワシントン体制は、日本の膨張を抑止する枠組みを意味したのです。
                     解明世界史 文英堂から引用。
 

主席全権・加藤友三郎は、ワシントン条約を調印に漕ぎ着け(1922年)、自己の信じる戦略的発想を具現した

第一次世界大戦後のアメリカの状況

 第一次世界大戦後、アメリカのウィルソン大統領は1916年の演説で「世界に並ぶもののない最大の海軍建設」を宣言していました。3年計画、5億8千万ドルの大予算で、1919年までに戦艦10隻,巡洋戦艦6隻など各種艦艇156隻を造るという海軍の大拡張計画です。
 世界での発言力を強めるためには、強力な海軍が必要だというのですが、これが日本との建艦競争を煽ることにもなりました。
 しかし、富める国アメリカといえども容易なことではありません。しかも第一世界大戦後の不況が始まっていました。1919年までに完成したのは、たった1隻しかなかったのです。
 街に失業者があふれれば、国民の間からも、「戦争が終わったのに、どうしてそんなに軍艦を造る必要があるのか。それよりは俺たちの生活を何とかしろ」。こういった声が強くなってきます。

現代史に学ぶ永原実歴史講座 第16回 ワシントン会議と加藤友三郎より引用

国際軍縮会議の開催

 共和党のハーディングが1920年の大統領選挙に当選した時、まず直面したのが失業対策、景気回復対策であり、そのために海軍予算の削減も検討しなければならなくなったのです。
 ハーディングは下院の演説で「平和を促進するため、各国と軍縮のため協議する用意がある」と言明しましたが、軍縮を求める世論の盛り上がりは、ハーディング政権の予想以上のものでした。
 アメリカ上院は、1921年5月25日「国際軍縮会議を開け」という決議案を全会一致で採択したのです。アメリカは世論の国です。ハーディングは、大統領としての指導力を国民にアピールするためにも、軍縮会議を開いて成功させる必要に迫られたのです。
 軍縮で日本海軍を縛り、日英同盟を廃棄させることが出来れば、金もかからず、太平洋での主導権も握れて一石二鳥です。アメリカが、イギリスの提案に乗ってワシントン会議の開催を呼びかけた背景には、こした事情があったのです。

現代史に学ぶ永原実歴史講座 第16回 ワシントン会議と加藤友三郎より引用

第一次世界大戦後の日本の状況

 日本は日露戦争の後、戦艦8隻、巡洋戦艦8隻の「八八艦隊」建設にかかっていました。その後いろいろの紆余曲折を経たのですが、1920年7月の原敬内閣の時、海軍念願の八八艦隊建設予算6億8千万円が議会で認められました。
 しかし、世界的の戦後不況は日本も直撃しました。3か月前の4月7日に株式の大暴落が始まり、13日には商品相場も暴落していました。
 しかも軍事費は、膨れ上がるばかりです。1920年度予算でも一般歳出13億6千万円のうち、軍事費が9億円、実に66%と膨大なもので、国家財政を大きく圧迫するようになっていました。
 加藤友三郎が海軍大臣になったのは1915年4月、大隈内閣の時です。加藤も八八艦隊を強力に推進した一人ですが、彼は危機を敏感に感じ取っていました。  
 加藤が八八艦隊の維持整備にかかる費用を試算させたところ、6億円もかかることが分かったのです。国の収入が飛躍的に増えでもしない限り、たとえ八八艦隊を造っても「維持は不可能」という結論が出たことになります。
 そこで加藤は、このまま軍艦を造り続けば、日本の財政は破綻する。「どこかでストップをかけなければ」と決意したのです。ですからアメリカの軍縮提案は、加藤にとって「渡りに船」だったわけです。
 アメリカ政府が、日本をはじめイギリス、フランス、イタリア、中国の5か国に、会議に参加するかどうか、意向を打診してきたのは1921年7月11日ですが、原敬首相の思いも全く同じだったのです。

現代史に学ぶ永原実歴史講座 第16回 ワシントン会議と加藤友三郎より引用

原首相は会議参加の決意をし、主席全権は加藤と決めていた

 対米英協調の必要を痛感していた原首相の参加決意は固いものでした。このアメリカ提案を、日本の大陸政策を転換し、外交の主導権を軍部から外務省に取り戻して、日本の国際的地位を改善する絶好の機会と見たのです。
 主席全権も早くから加藤と決めていました。加藤は閣議の席でも海軍以外のことには口を出さず、黙って聞いていただけです。ただ核心をとらえて、簡潔に結論だけを言います。
 原は「加藤という人は普段は黙っているが、何事でも正確な判断を出して行く」と、口数の少ない加藤が、的確な判断力、確固たる信念を秘めていることを見抜いていました。
 原内閣は1921年8月23日、アメリカ政府に会議参加を正式に回答しましたが全権には加藤の他に駐米大使の幣原喜重郎と貴族院議長の徳川家達が加わりました。
 幣原は加藤の希望で、その外交手腕、英語力を買っていましたし、何より英米協調の姿勢は会議の成功には絶対欠かせないと思ったのです。
 徳川は貴族院に弱い原内閣の貴族院対策でありました。

現代史に学ぶ永原実歴史講座 第16回 ワシントン会議と加藤友三郎より引用
 

海軍の基本方針と政府訓令

 海軍は対米7割を基本方針としていました。しかし加藤たち全権団に与えられた政府訓令は、国際協調の確率、とくに米国との親善、円満なる関係の保持が最重要方針とされていました。
 海軍の軍備制限については、八八艦隊を基本とするが会議の状況によっては減らしてもよい、としています。政府訓令に対米7割の数字が明示されず、いわば加藤の裁量に任されたのは、原首相のリーダーシップによるものでした。

現代史に学ぶ永原実歴史講座 第16回 ワシントン会議と加藤友三郎より引用

原首相の暗殺と加藤の困惑

 全権団140人が横浜からアメリカに向かったのは1921年10月15日でした。見送りに来た原首相は加藤の手を固く握りしめ、「国内は自分が纏めるから、あなたはワシントンで思う存分やって下さい」と励ましました。
 ところが加藤が最も恃みとする原首相が、20日後の11月4日、東京駅で暗殺されたのです。
 ワシントンに着いて悲報を聞いた加藤たちは、「今後どうなるのか。たとえ条約を成立させても、果たして批准が得られるだろうか」と暗澹たる想いになったといいます。それほど原のリーダーシップは際立っていたのです。
 結局、大蔵大臣の高橋是清が後継首相になり、高橋内閣は「外交方針は不変である」、原内閣の時と変わらないと全権団に約束して来ました。高橋は財政の第一人者ですが、こと政治力、指導力となると、とても原には及びません。
 強硬意見の多い枢密院や外交調査会、さらに陸軍が「国家の体面」を理由に突き上げ、そのたびに方針がグラついて全権団を悩ますことになるのです。

現代史に学ぶ永原実歴史講座 第16回 ワシントン会議と加藤友三郎より引用 

ヒューズの爆弾

 ワシントン会議は11月12日、コンチネンタル・メモリアルホールで開幕しました。9か国の代表が演壇に並び、傍聴席はアメリカの上下両院議員はじめ2千人の聴衆で超満員でした。
 総会議長に選ばれた国務長官ヒューズはいきなり爆弾提案をして、国際会議の華やかなお祭り気分を吹き飛ばしてしまいました。後々まで「ヒューズの爆弾」と言われるものですが、ハーディング大統領は「こうした軍縮の話し合いは、すぐお互いの利害がぶつかり合う。相当思い切ったことをしなければダメだ」と思っていました。
 そこでヒューズと立てた作戦が、アメリカ政府の決意と誠意を示すため、最初から手持ちのカードを全部開いてみせるという型破りの方法だったのです。
 ヒューズはまず、10年間の主力艦の建造停止、「ネイバル・ホリデー」と呼ばれる「海軍の休日」を提案しました。
 現在建造中の主力艦はすべて廃棄し、建造計画を放棄する。各国の現有海軍保有勢力を基準にして、米、英、日本の主力艦保有比率を総トン数の比で5対5対3と定め、それに基づき各国の保有量を決定し、過剰の分についてはこれを廃棄する。巡洋艦や駆逐艦などの補助艦についても、同じ比率を適用して削減する。
 そしてヒューズは、「この原則に基ずいて次の措置を取る用意がある」と宣言したのです。建造中の主力艦15隻を廃棄し、老齢艦15隻も廃棄する。満場一斉に起立して割れんばかりの拍手です。
 ヒューズはさらに、イギリスは23隻、日本に17隻の廃棄を求め、協定成立後の総トン数は米英の50万トンに対し日本は30万トンになるとしました。朝日新聞は「満場は雷に打たれたようにシーンとして声も出ない有様だった」と伝えています。
 日本に対する6割提示でしたが、問題は各国がどう出るかでした。ところが日本より低い3割5分を指示されたフランスの全権が起立して大声で「賛成」というと、会場は再び怒号のような喝采に揺れたのです。「戦争は無くなった、平和だ」の叫び声もしました。ハーディングとヒューズのアメリカ世論、世界世論に訴えた作戦の成功でした。
 とにかく、全部で70隻の戦艦をスクラップにしようというのです。アメリカの新聞は「ヒューズはたった一回の演説で、世界のどの提督よりもたくさんの軍艦を沈めた」と書いていますが、会議早々の大胆な提案は日本全権団にもショックでした。何度も席を変えて、考えてみたい気分になったそうです。
 加藤も「大変なことが始まったな」と思いましたが、特に強烈な印象を受けたのは会場の圧倒的な支持でした。加藤は幣原に「もしこれに反対したなら、日本はひどい目にあう。どうしても主義として反対するわけにはいかない」。こう言いましたが、それでも迷いはあったのでしょう。宿舎のホテルにかえるなり、トイレに入り、器に座って考えたといいます。
 結論はこうでした。ヒューズの提案で交渉の基礎が示され、問題点がはっきりした。この海軍軍縮は、むしろ10年間の平和の保障であり、日本としては国力の基礎を養う機会を与えられたことになる。
 「日本にとって不利はない」と判断した加藤は、さっそく記者会見を開いてヒューズの提案を大英断と讃え、「英米よりも劣勢の海軍を持てとの原則に、日本は不満はない」と言明したのです。そして海軍随員の野村吉三郎大佐にに内田康哉外相、井出謙治海軍次官に連絡をとらせ、「原則賛成」の了解を取り付けました。

現代史に学ぶ永原実歴史講座 第16回 ワシントン会議と加藤友三郎より引用 

総会2日目の15日 加藤は原則同意「アグリー・イン・プリンシプル」を表明する

 総会2日めの15日は、各国全権の演説で始まりました。最初に立ったイギリス全権バルフォアは無条件受諾でした。金のないイギリスがアメリカと対等なら文句はありません。
 会場が固唾をのんで見守ったのは、6割を押し付けられた二番目の加藤全権です。加藤が低い声で「日本は、主義において欣然この提案を受諾し、自国の海軍軍備に徹底的な大削減を加える決心をもって、協議に応ずる覚悟である」。
 通訳が「アグリー・イン・プリンシプル」と訳すと、満場総立ちになって一斉の拍手でした。この演説は加藤が政府の回訓を待たずに独断でしたもので、演説草案を書いた山梨勝之進大佐は思わず目頭が熱くなったそうです。
 加藤は、比率については追って修正案を出すこと、「その場合、アメリカ及びその他の代表者は、日本が諸国の主張に対するのと同様の態度でこれを考慮されるように」望んで、演説を終えたのです。
 翌日からの専門委員会で具体的な協議に入りましたが、原敬という大黒柱を失った高橋内閣では、なかなか方針が決まらないだろうし、いちいち訓令を待っていては時期を失する恐れがあります。加藤は、内田外相に「臨時適宣の処置に出ることに致したし」と、全権判断による交渉の許可を求めたのです。

現代史に学ぶ永原実歴史講座 第16回 ワシントン会議と加藤友三郎より引用

二人の加藤

 実はこのワシントン会議には「二人の加藤」が参加していました。全権の加藤のほかにもう一人海軍の主席随員で7割絶対論の加藤寛治中将です。友三郎が知性派なら寛治は闘将タイプでした。
 専門委員会の初日早々「対米7割が獲得できない限り、日本は会議を脱退し帰国する」とやってしまったのです。寛治とすれば、まず日本の決意を示しておこう。その積りでやったのでしょうが、「日本が脱退帰国だ」というので、各国記者団がどっと日本大使館に押しかけました。
 加藤友三郎は「加藤寛治君の個人的見解と見てもらいたい。全権団は脱退帰国などは全く考えていない」とその場を収めましたが、その夜、ホテルの部屋に寛治を呼びつけると、青白い顔を真っ赤にして怒鳴りつけたのです。
 「君は全権団の任務を何と心得ているのか。こんなことで日本が会議を脱退したら、会議分裂の責任を問われ、平和を乱す軍国主義者の汚名を蒙る。大体君は専門委員で全権は私である。私を差し置いて、脱退帰国などと勝手な声明を出すことは絶対に許さん。海軍中将にまでなっていて、それくらいのことが分らんのか。今後こういうことがあれば、君だけ帰国を命じる」。
 野村吉三郎に言わせると、友三郎は寛治の兵学校、砲術学校時代の教官で、さすがに強気の寛治も全く頭が上がらなかったと言います。それにしても昭和の陸軍首脳部に統制力がなくなり、陸軍の下剋上が戦争につながったことを考えると、海軍大臣として見事な統制力でした。

現代史に学ぶ永原実歴史講座 第16回 ワシントン会議と加藤友三郎より引用
 

加藤は、日本の6割と引き換えにアメリカの譲歩を引き出す

 ヒューズの軍縮案が比率の根拠としたのは現有勢力ですから、確かに公平なのですが、問題は建造中の軍艦の進捗率をどう算定し現有勢力に入れるかでした。加藤寛治は「日本が7割ある」と言って譲らず、結局全権同士、加藤友三郎、ヒューズ、バルフォアの三人の討議に委ねられることになりました。
 会議を纏めるためには「6割やむなし」の腹を固めた加藤は、日本の6割と引き換えにアメリカの譲歩を引き出そうとしたのです。
 一つは、廃棄艦リストに入っている最新鋭艦陸奥の復活、もう一つは、加藤が最後の切り札と考えていたグアム島とフィリピンのマニラの要塞化を阻止することでした。
 アメリカが日本を攻める場合の海軍基地をハワイから西には進めさせない。太平洋諸島の防備と基地をこれ以上強化させないで、現状維持を図ろうとしたのですが、この辺が加藤という人の頭の柔軟なところです。
 加藤はこの二点を対案として英米に提示するとともに、政府にも「これで妥協するよう」請訓しました。
 加藤の心配は、アメリカの世論の動向でした。そこで重ねて「日本が7割にこだわれば、今は鎮静化している反日感情が噴出し、会議の失敗は全て日本に帰され、日本の国際的孤立は避けられない」。こう電報を打ってぐらついている政府の尻を叩いたのです。
 高橋内閣が「条件付き6割」を閣議決定し、陸奥復活など海軍軍縮の基本合意が成立したのは12月13日のことでした。

現代史に学ぶ永原実歴史講座 第16回 ワシントン会議と加藤友三郎より引用
 

加藤は最大のピンチに陥る

 「5・5・3」が発表されると、国民の多くは一等国、五大国の自負心を傷つけられたように思ったのです。「7割よりグアム、マニラの要塞化阻止の方が重要な成果だ」と評価したのは読売新聞くらいなもので、新聞論調も米英の圧力に屈した意気地なさ、弱腰を責めるものが大半でした。
 野党憲政会も「元来対等の地位にある日本が、何でこんな譲歩をする必要があるのか」と政府批判を展開しました。
 そこへ、どこまでを太平洋諸島の防備制限範囲とするか、その範囲をめぐってアメリカが「奄美大島や小笠原諸島も入る」と言い出してきたのです。陸軍と外交調査会は「純然たる日本の本土の一部だ、当然除外される」と猛反対です。
 高橋内閣は「これ以上の譲歩は国民感情が許さない」と主張貫徹を要求してきました。加藤は「会議を壊していいのか、その責任を引き受ける覚悟があるのか」と叫びたい気持ちだったでしょう。「こういうことではもう辞めるより他ない」と言うと、幣原も徳川も「あなたが辞めるなら私たちも辞めますよ」と全権団は結束しました。 
 加藤は「強ヒテ御訓令ヲ其ノ儘執行セザルベカラザルニ於イテハ只大任ヲ拝辞スルノ外途ナシト思考ス」。全権辞任も辞さずの態度で、政府の方針転換を迫ったのです。

現代史に学ぶ永原実歴史講座 第16回 ワシントン会議と加藤友三郎より引用

加藤は1922年2月6日にワシントン条約調印に漕ぎ着ける

 こうして米英だけではなく、日本国内も相手にして、加藤が粘り強い交渉でワシントン条約に漕ぎ着けたのです。
主力艦の
保有比率
 英米  5   52万5千トン
 日本  3   31万5千トン
 フランス・イタリア 3.5
隻数
 アメリカ      18隻
 イギリス      20隻
 日本        10隻
最後までもめた太平洋の防備制限区域は
 アメリカ フィリピン、グアム、サモア、アリューシャン
 イギリス 香港
 日本   千島列島、小笠原諸島、奄美大島、琉球列島
とすることで決着しました。
また日米英にフランスを入れた「太平洋に関する四国協定」が成立し、20年間続いた日英同盟は廃棄されたのです。
 こうして日本、アメリカ、イギリスの協力関係を中心とした太平洋の新しい国際秩序、いわゆる「ワシントン体制」がスタートすることになります。

現代史に学ぶ永原実歴史講座 第16回 ワシントン会議と加藤友三郎より引用

1921年12月27日付けの加藤メモ

 加藤友三郎のことを「玲瓏名哲、鏡のようなクリアな人、頭が良くて、肝が座っている。裁断する勇気と胆力、村正の名刀のような人でした」。こう言ったのは山梨勝之進大佐です。確かにワシントン軍縮条約を纏めることができたのは、加藤の胆力と勇気でした。
 その上加藤はびっくりするほど用意周到、緻密な手を打っています。加藤には1921年12月27日付けの有名なメモがあります。6割受諾の経過、自分の国防論、これらの海軍の方針を随員の堀悌吉中佐に口述筆記させたものです。「加藤全権伝言」と題する600字詰め原稿用紙18枚には、加藤の考えが実のよく出ていますし、今読んでも理路整然、堂々たるものです。これが海軍だけではなく陸軍、ひいては日本の政治家共通の考えになっていたら、日本が軍国主義になることもなかったと、大変残念な気がいたします。

現代史に学ぶ永原実歴史講座 第16回 ワシントン会議と加藤友三郎より引用

国防は軍人の占有物にあらず

 「国防は軍人の占有物にあらず」この一言だけでも加藤の見識の高さが分ります。戦争もまた軍人だけで出来るものではないし、国家総動員して当たらなければならない。だから、一方においては軍備を整備すると同時に、民間工業力を発達させ、貿易を奨励し、国力を充実させておかなければどんなに軍備の充実があっても活用できない。
 加藤は「ひらたくいえば金がなければ戦争はできない」と言っています。仮に軍備はアメリカに拮抗する力があると仮定しても、戦争になれば大変な金が要る。どこかから金を借りなければならないが、アメリカ以外に日本の外債に応ずる国は見当たらない。そのアメリカが敵であるとすれば、この道は塞がれ、日本は自力で軍資金を作り出さなければならない。この覚悟がない限り戦争はできない。結論として「日米戦争は不可」ということになる。
 国防は国力に相当する武力を備えると同時に、国力を培養涵養し、一方、外交手段により戦争を避けることが、目下の時世では国防の本義なりと信ずる。
 仮に軍備制限がなく、これまで通りの建艦競争を続けていたらどうなるであろう。アメリカは必要と感じたら、何事でも遂行する力がある。そうなれば日米間の海軍力の差はますます増加するも接近することはない。日本は非常な圧迫を受けることになる。米国提案の10・10・6は不満だがもしこの軍備制限が成立しない場合を想像すれば、むしろ10・10・6で我慢する方が結果において得策だと、こう言うのです。
 軍備の増強ばかりを考えがちな軍人の中にあって、加藤が傑出していたのは、経済の果たす役割をよく理解をしていたことだと思います。
 加藤は6割受諾が議会で野党憲政会から攻撃されることを予測していました。そこで留守を預かる井出海軍次官にだけには、経過と自分の考えを知らせておく必要があると思い、堀中佐にこのメモを持たせて一足早く帰国させたのです。
 7割論者の東郷元帥は、やはり山梨大佐を先に帰して了解を取り付けました。東郷が表だって反対せず、海軍内部が比較的すんなりと6割を受け入れた背景には、こうした加藤の緻密で慎重な配慮があったのです。

現代史に学ぶ永原実歴史講座 第16回 ワシントン会議と加藤友三郎より引用

加藤は軍人一筋のエリートだったが、政治家としても優れた資質を身につけていた

 加藤は日本海海戦(1905年)において、司令長官東郷平八郎の下で参謀長として参加しています。「東洋の奇跡」と称賛された日本海戦の勝利は、「東郷ターン」と呼ばれる敵前Uターンによってもたらされたものです。
 作戦参謀秋山真之中佐の考え出したT字戦法で、日本艦隊が横一線になってなって、常にTの字のようにバルチック艦隊の進路を押さえていきます。問題はタイミングでした。こちらがUターンしている間は砲撃できませんから、撃たれっぱなしになります。早すぎても遅すぎても失敗します。
 午後2時5分、両軍の距離が8千メートルになった時、望遠鏡から目を離した加藤が、「もうよろしいかと思います」。東郷も「よろし」と頷き、加藤の「艦長、取り舵いっぱい」の甲高い声が戦艦に響き渡り、旗艦三笠はグイと左に直角に進路を変えたといいます。
 実は加藤は砲術にかけては日本海軍切っての権威で、明治19年(1886年)、その頃の海兵の砲術教官は全てイギリス人でしたが、25歳の若さで日本人としては初の教官になっているのです。
 そのエリート軍人の加藤が、いったいどこで政治家としての優れた資質を身に着けたのでしょうか。加藤は明治32年(1899年)、38歳で海軍省の軍事課長になりましたが、大臣は「海軍育ての親」の山本権兵衛でした。
 それから3年、常に山本の下にいて、予算から人事、教育のありようなど、山本を見て学んだのです。そして心して、決断、慎重さを自分の物にしていったのです。

現代史に学ぶ永原実歴史講座 第16回 ワシントン会議と加藤友三郎より引用

1923年6月に加藤友三郎内閣が成立

 加藤は、ワシントン条約調印から4か月ほど経った1922年6月12日に高橋是清内閣に代わって首相になりました。ワシントン会議を纏めた手腕が高く評価され、また次期内閣最大の課題が条約の実施にあったからです。
加藤は着実に政策を実行していきました。6月14日に初閣議を開くと、翌日には施政方針を発表しています。
 外交では、
  国際連盟規約、ワシントン条約の精神に基づき各国と協力して列国間の親交を増進すること、
 内政では、
 「きれいな政治」をモットーとしました 
外交問題で真っ先に手をつけたのは、原内閣以来の懸案であるシベリアからの撤兵でした。まだ出兵を続けているのは日本だけで、金ばかりかかって、国際的非難も高まるばかりです。
 加藤は、6月13日の閣議で10月末までに撤兵の方針を決めると、翌日政府声明の形で公表しました。撤兵は声名どおり10月25日に完了させ、4年余りに渡った出兵を終了させました。
 最大の問題だった軍縮条約も、憲政会の反対を押し切って8月5日、調印国の中では日本が真っ先に調印を終えました。加藤は、日本の国際的地位を高めるには外国から信頼される国になること、それには条約をきちんと守ることだと考えていたのです。
 軍縮という大事業には、当然のことながら大きな痛みを伴います。日本が認められた主力艦は10隻ですから、14隻を処分しなければなりません。「これで国を守るのだ」と、日本の誇りとしてきた戦艦を自分の手で沈める海軍将兵の気持ちはどんなものだったでしょう。泣き出す水兵もいたそうです。こうして14隻を沈めるか、解体してスクラップにしました。
 軍艦が減れば人員も減らさなければなりません。加藤は、舞鶴、鎮海の軍港を要港に格下げし、旅順など3つの要港と教育本部を廃止するなど、海軍の機構縮小に大ナタをふ振るいました。一番苦しい思いをしたのは加藤だったでしょう。
 海軍の人員整理は,大将3人、中将17人など準士官以上1700人、下士官兵5800人に達しました。当時の海軍将兵8万人の1割近く、士官にいたっては3分の1という大変大きなものです。
 主力艦の建造をやめれば、大勢の職工もクビにしなければなりません。1911年10月の呉海軍工廠の4000人余りを皮切りに、14000人の職工が解雇されたのです。不況の真っただ中に放り出され、労働市場の狭い当時の日本では再就職は大変なことでした。これもまた、軍縮が潜らなければならない陰の部分だったのでしょう。

現代史に学ぶ永原実歴史講座 第16回 ワシントン会議と加藤友三郎より引用

財政のピンチは救われた

 日本はこの軍縮によって、4年間で軍艦建造費の臨時費で4億9千万円、経常費で7千8百万円を減らすことが出来ました。まさに日本の財政のピンチを救った軍縮でしたが、加藤は常にその先頭に立ち、また決断もしてきました。加藤自身「自分の最大の責任」と決意していたのです。
 加藤が大筋が固まったのを見届け、大腸ガンで亡くなったのは1923年8月24日、首相在任1年2か月、62歳でした。奥さんに「俺はこれから眠る。よく眠れそうだ」と言ったのが最後の言葉だったそうです。海軍は元帥の称号を贈り、海軍葬で弔いました。

現代史に学ぶ永原実歴史講座 第16回 ワシントン会議と加藤友三郎より引用

加藤と同じような考えを持つ人

 その頃の海軍で、少しでもアメリカを知っている人は、大体加藤と同じような考えを持っていました。日米開戦時の連合艦隊司令長官山本五十六は、「デトロイトの自動車工業とテキサスの油田を見ただけでも、日本の国力ではアメリカ相手の戦争も、建艦競争もやり抜けるものではない」。こう言っていました。
 山本戦死の後を受けて司令長官になった古賀峯一も、軍縮に賛成した一人です。6割海軍に憤慨する青年士官に、「アメリカが日本の6分の10で我慢している。そういう風に考えればよいではないか」と諭したそうです。

現代史に学ぶ永原実歴史講座 第16回 ワシントン会議と加藤友三郎より引用

戦略的発想と戦闘能力偏重思想の衝突

 国防について「軍人の占有物にあらず」と国の経済をも含めた戦略的発想をする加藤は、国防を専ら戦術的に考える軍人と意見が衝突することが見えていた。ちょうど二人の加藤、友三郎と寛治の衝突にみられるように。
 そこで加藤友三郎は山梨勝之進に「武官大臣制、軍人が陸海軍大臣である制度を変えないと、いつかは軍備の問題で軍部が時の政府と衝突するようになる」と語っています。そして「日本の軍部大臣も、いずれイギリスのようになるだろう」とも漏らしていました。
 この軍部大臣武官制というのは、1900年5月、陸軍の大御所山県有朋が首相の時に現役の大将、中将でないと陸海軍大臣になれないようにした制度です。1898年に初の政党内閣大隈重信内閣が成立し、危機感を抱いた山県が政党勢力の軍部侵入を防ごうとしたのですが、何しろ陸海軍大臣がいなくては内閣を作れません。
 この後、軍部はこの制度をテコに内閣に圧力をかけ、軍部勢力を強化していったのです。
 加藤は、ワシントン会議の米英の全権、ヒューズもバルフォアも文官なのに軍人の発言をきちんと抑えていることに感銘を受けていました。
 アメリカ海軍の試算では、日本の対米比率は49%だったそうです。しかし国務長官のヒューズは、「それではとても日本が呑まない」と6割にさせ、強硬に5割を主張する軍関係者を処分して押しきったといいます。
 それに引き替え日本では、軍部が何か一言いうと簡単な問題でもなかなか纏まりません。山梨は「加藤さんは文官大臣制を研究していたようで、もう少し生きていたら日本も変わったろう」と言っています。
 実は原敬も大臣文官制を考えていたのです。加藤がワシントンに行って留守中、首相の原は海軍大臣の臨時事務管理になっていますが、文官が軍部大臣の実質的な代理を努めた初めてのケースでした。その詳しい過程については省略しますが、間もなく議会には軍部大臣の文官制が上程されます。
 実行力、政治力のある原が健在だったら、軍縮の時代と共に一気にシビリアンコントロールが実現していたかもしれません。戦争につながる軍部の独走も防げたかと思うと、大変残念なことでした。

現代史に学ぶ永原実歴史講座 第16回 ワシントン会議と加藤友三郎より引用

一切を棄つるの覚悟ーワシントン会議にあたって

石橋湛山(後の第55代内閣総理大臣)が東洋経済新報(1921年7月23日号)に発表した社説

例えば満洲を棄てる、山東を棄てる、その他支那が我が国から受けつつありと考うる一切の圧迫を棄てる、その結果はどうなるか。また例えば朝鮮に、台湾に自由を許す、その結果はどうなるか。英国にせよ、米国にせよ、非常な苦境に陥るであろう。なんとなれば彼らは日本にのみ、かくのごとき自由主義を採られては、世界におけるその道徳的位地を保ちえずに至るからである。その時には、支那を始め、世界の小弱国は一斉に我が国に向かって信頼の頭を下ぐるであろう。インド、エジプト、ペルシャ、ハイチ、その他の列強属領地は、日本が台湾・朝鮮に自由を許したごとく、我にもまた自由を許せと騒ぎ立つだろう。これ実に我が国の位地を九地の底より九天の上に昇せ、英米その他をこの反対の位地に置くものではないか。我が国にして、ひとたびこの覚悟をもって会議に臨まば、思うに英米は、まあ少し待ってくれと、我が国に懇願するであろう。

出典 http://www.geocities.jp

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