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日露戦争で得た満州権益の独占が火種となって日米戦争へ[7]

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アメリカとの戦争は「仕様がなかった」のか?

「重臣たちの昭和史」の序で

木戸幸一が、アメリカとの戦争に突入した昭和の歴史を顧みて、
 一口で言えば「あれしか仕様がなかった」と考えると言っているのは正確だと思いますが、それは、

日露戦争直後以来日本が満州を独占したという戦略的誤りに起因

するのであって、

日露戦争直後においては、まだ別の戦略を選択をする余地はあった

ということは充分言えると思えます。
 
戦略的思考とは何か 岡崎冬彦著より引用。

日露戦争終結後、日本はポーツマス講和条約(1905年)により権益を得ます

ロシア領である樺太の南半分と
ロシアが南満州に持っていた権益をそのまま譲り受けました。
  ①ロシアが清国から借りていた租借地
    旅順、大連のある遼東半島
  ②長春ー旅順間の東清鉄道
    その一切の視線とこれに付属する財産、炭鉱の経営権
そこで、
 日本は満鉄という半官半民の会社を作って(1906年11月)鉄道の経営に当たりましたが、これが資源の乏しい日本にとっては「宝の山」だったのです。
 

満鉄は、単なる鉄道会社ではありませんでした

 この鉄道で沿線地域を支配しさらにそれを広げることを目的とする国策会社だったのです。
 発足当時1100キロだった営業路線は、1945年の配線の時には10倍の1万1千キロにもなっていました。鉄道経営の他に鉱業、電気、水道など多くの兼業を許されていましたから、関連事業は多岐にわたり、あらゆる事業を一手に握って満州の経済を独占する一大コンツェルンを形成していたのです。

「宝の山」満鉄は、アメリカとの共同経営になっていたかも・・

 東清鉄道の南半分が日本のものとなりましたが、米国の鉄道王ハリマンは、米国資本を参加させた日米共同経営を申し入れます。伊藤博文の盟友、元老井上馨はすぐこれにとびつき、桂総理をこれに同意させます。

現代史に学ぶ 永原実歴史講座 第10回 満州 日米対立の火種 より引用。

来日したハリマンの野望と提案

 1905年9月5日、賠償金が取れないポーツマス条約に「屈辱講和だ」として日比谷焼打ち事件が起こり、騒然としている日本へ、アメリカの鉄道王ハリマンがやって来ました。
 ハリマンの夢は、世界を自分の鉄道でつなぐことでした。「東清鉄道の南半分は日本の物になるに違いない」。そう読んだハリマンは、ポーツマスで講和会議が始まった8月10日にニューヨークを発つと、日本に着くなり「日米共同でこの鉄道をやろう」と提案したのです。
 大連を起点として東清鉄道からシベリア鉄道を経てヨーロッパと結ぶ。この連絡鉄道が出来れば、ハリマンはアメリカだけでなく、ヨーロッパの大陸横断鉄道も支配出来ることになります。
 日本の戦時公債500万ドルを引き受けてくれたハリマンは、日本にとっては最高級のお客様でした。連日のように歓迎午餐会、晩餐会が開かれ、ハリマンは
その席で「東清鉄道を経営するからには、世界の主要幹線にしなければ意味はない。そのためにはアメリカの潤沢な資金が必要だ」と力説したのです。

現代史に学ぶ 永原実歴史講座 第10回 満州 日米対立の火種 より引用。
 

桂首相はじめ政府の要人は、ハリマンの提案に乗り気となる

 とにかく日露戦争で全力を出し切った日本には、お金がありません。桂首相はじめ政府要人も乗り気になりましたが、なかでも強力に支持したのが元老の井上馨です。 
 日露戦争の戦費は20億円近くかかりましたが、外国で募集した外債は12億円です。しかも利子が平均5%、利子だけでも年に6000万円。これは金貨の支払いですから、身の細るような戦後財政のやり繰りでした。
 そこへ新しく獲得した樺太開発、旅順、大連の整備とお金のかかることばかりです。とても日本だけで東清鉄道を経営する力はない。誰もがそう思っていたところへ、このハリマン提案です。しかも財政に一番やかましい井上馨が大賛成となれば、話は決まったも同然でした。こうして10月12日、桂首相とハリマンとの間で予備協定の覚書が交わされたのです。

現代史に学ぶ 永原実歴史講座 第10回 満州 日米対立の火種 より引用。

通信大臣大浦兼武の反対意見

 日本は東清鉄道を現物出資し、ハリマンは金を出すということで、桂が調印するつもりで閣議に入ったところ、ただ一人反対したのが、通信大臣大浦兼武でした。「外国資本を入れたら、将来に禍根を残す」と不安を訴え「せめて講和会議全権の外務大臣小村寿太郎の帰国を待って、その意見を聞いてから決定すべきだ」と、調印の延期を求めたのです。
 16日に、帰国したハリマンと入れ違いに帰ってきた小村は「何と馬鹿なことを。大勢の血を流し、莫大な国費を費やしてようやく得た満州経営の大動脈を、自らアメリカに売ってしまおうというのか」。
 こう言って激怒しましたが、小村にとって救いは、予備協定がまだ調印されていないことでした。

現代史に学ぶ 永原実歴史講座 第10回 満州 日米対立の火種 より引用。
 

桂首相は予備協定の白紙撤回を承諾する

小村は桂首相を訪ね協定破棄を強く迫りました。
 ①日露講和条約第6条によって、鉄道は、ロシアから日本への譲渡が「清国政府の
  承認」を得て日本のものにしてからでないと、鉄道の処分については第3者と交
  渉出来ないことになっている。
 ②ハリマンとの協定では会社は日本の監督下に作ることになっていましたが、最終
  的には代表権も監督権も日米均等になっています。資本力、技術力で勝るアメリ
  カにやがて独占される危険性はありました。
 ③「東清鉄道は日本の満州経営の足場です。それを自ら投げ出せば、国民はどん
  なに怒るでしょう」という国民感情論。
条約からの正論と国民感情論で迫られた桂首相は結局予備協定の白紙撤回を承知しました。

現代史に学ぶ 永原実歴史講座 第10回 満州 日米対立の火種 より引用。

井上のこだわりー資金はどうするのだ?

 最後までこだわったのが井上です。「資金の無い日本が、単独では東清鉄道を経営できない。こんな簡単なことが、君に分らぬはずあるまい」。こう主張する井上に、小村は資金の道をつけてきたことを説明しました。

現代史に学ぶ 永原実歴史講座 第10回 満州 日米対立の火種 より引用。
 

小村は資金の道をつけて帰ってきた

 小村はハリマンの日本訪問を知っていましたし、その動向も気にしていました。ところが金子堅太郎、この人はハーバード大学同窓のセオドア・ルーズベルトを日露講和条約の仲裁役に引っ張り出した立役者ですが、その金子の所へルーズベルトの従弟のモンゴメリー・ルーズベルトが訪ねてきて、「大統領はハリマン計画に不賛成だ」と伝えたのです。
 しかもモンゴメリーは、東清鉄道を日本独力で経営できるよう、アメリカの五大銀行から低利融資の了解を取り付けたと言います。機関車、客車、レールなど鉄道資財は、必ずアメリカから買うという条件が付いていましたが、純然たる借金であれば返せば済むことです。
 こうして小村は、ハリマン計画を潰してもアメリカ大統領に異存がないこと、しかもアメリカ金融資本の援助の見通しもつけて帰ってきたのです。

現代史に学ぶ 永原実歴史講座 第10回 満州 日米対立の火種 より引用。

小村が資金の道はつけたと説明しても、井上は引き下がりません

 「アメリカを満州に入れれば、ロシアの野望を押さえることが出来る」と言うのです。
 井上の考えは、今後日本にとって最大の課題となると予想されるロシアの復仇と中国の国権回復運動に対抗するには、満州に米国と中国の両方の資本を入れて、緩衝地帯をつくろうということです。実に極東の力関係の将来を見通した卓見だと思われます。 
 もしこれが実現していればその後の日本外交はよほど変わったものとなり、おそらく日本は現在の先進民主主義国の水準にもっと早く、しかも戦争の悲惨も経ずに到達していたかもしれません。

戦略的思考とは何か 岡本冬彦著より引用。

小村の反論

 小村は譲りません。「ロシアの脅威には、日英同盟で十分対抗出来る」と云うのです。1902年に結ばれたイギリスとの同盟は、ポーツマス講和会議が開かれていた1905年8月12日、それまでの防守同盟から、日本がどこかと戦争になればイギリスも自動的に参戦するという、攻守同盟に強化されていました。
 ロシアが再び戦争を挑んでくれば、イギリスも日本側に立って戦うことになるのです。さすがの井上も、小村に同意せざるを得ませんでした。
 最大の難関井上を攻略した小村は、桂首相に緊急閣議を招集させ、ハリマンの協定を白紙に戻すことに成功したのです。

現代史に学ぶ 永原実歴史講座 第10回 満州 日米対立の火種 より引用。
 

ハリマンの予言が的中する

日本が予備協定の白紙撤回をした事について、ハリマンは、1906年に渡米した高橋是清に対して「日本は10年後に後悔することになるだろう」と言ったそうです。
 10年後というのは当たりませんでしたが、小村の主張に従って満鉄独占の舵取りをした日本は、40年後に米・中・ソ連を敵として敗戦の憂き目に遇うことになります。ハリマンの予言は当たったのです。ひいては、小村より井上が正しかったと云えるでしょう。

戦略的思考とは何か 岡本冬彦著より引用。

ルーズベルト大統領がハリマン計画に反対したのは何故か?

 アメリカは1897年にハワイを併合、翌年にはスペインとの戦争でフィリピン、グアムと太平洋の飛び石的橋頭堡を獲得し、中国大陸に対する経済的進路を開拓しました。
 しかし中国本土は、欧州列強による勢力範囲が固まっていて、国務長官ジョン・ヘイは1899年、門戸開放を訴え、先に出ている国々に対して通商の機会均等を求めたのですが、分け入る余地は少なく残された地域は満州だけでした。

現代史に学ぶ 永原実歴史講座 第10回 満州 日米対立の火種 より引用。
 

日本とアメリカの利害の一致

ですから、満州を占領して独占しているロシアに対し、満州の門戸開放を約束して戦争に入った日本とは、アメリカは利害が一致していたのです。
 ルーズベルトが講和会議を斡旋したのも、日本がロシアに勝てば門戸開放の条件が整うと見たからです。「東清鉄道は日本が戦争でやっと手に入れたものだ。それをハリマンが金で引っ掻き回すのはよくない。それより日本が経営できるよう資金援助をしてやる。そうすれば日本は必ず門戸開放の約束を守るだろう」。
「ルーズベルトはそう考えたのだ」と、金子堅太郎は話しています。

現代史に学ぶ 永原実歴史講座 第10回 満州 日米対立の火種 より引用。

ルーズベルトの出した重大なサイン

 実はルーズベルトは、満州の戦争処理に関して、早くから明確な意思表示をしていたのです。旅順が陥落して、日本が戦勝気分に沸き立っている時です。
 金子に「アメリカとしては、日本が旅順を領有し、韓国を勢力範囲にいれることを認める。満州を清国に返した後、列強の保障のもとに中立地域にすべきだ」。「満州を清国に返せ」、これがアメリカの方針だという、重大なサインでした。

現代史に学ぶ 永原実歴史講座 第10回 満州 日米対立の火種 より引用。
 
 

満州をめぐる日米対立の火種

 小村の方も、駐米大使高平小五郎を通じてルーズベルトの意向は承知していたのです。しかし高平に宛てた訓令では、清国返還に賛成しながらも、留保条件を付けています。それは「安全で秩序ある満州になるよう、清国が改革と善政をやってくれれば」と、日本に発言権の余地を残しています。
 満州をめぐる日米対立の火種は、この時からくすぶり出していたいたことになりますが、日本は満洲解放を約束して米英の支援を取り付けたのですから、何をおいてもこの国際信義は守るべきだったのです。

現代史に学ぶ 永原実歴史講座 第10回 満州 日米対立の火種 より引用。

日露戦争終了後、日本は満州独占への道を走る

日本軍は、
 新しく租借地とした遼東半島に一個師団
 満州の占領地警備に二個師団
を残して凱旋しました。

遼東半島は

日本の領土になったのですから、いくら軍隊をおいても問題はありません。

満州占領地警備の方は

 講和条約の効力発生の日から18か月以内、つまり1907年4月15日までに日露両軍とも満州から撤兵する約束になっていました。
 そして撤兵と入れ替わりに、日本の満鉄の線路を守る守備兵を置くことにしたのですが、講和条約の乗り決めで線路1キロにつき15人以内、全体で1万4419人の鉄道守備兵をロシアも認めていました。とはいっても、これは清国の頭越しに決めたものだったのです。
 詳しいことは省略しますが、日本の鉄道守備兵というのも、1886年の露清密約に違反するロシアの違反行為にならったものなのです。

現代史に学ぶ 永原実歴史講座 第10回 満州 日米対立の火種 より引用。
 

日本の鉄道守備兵を置くことに、当然清国は反発しました

日本の鉄道守備兵を置くことに、当然清国は反発しました。小村外相が北京で「清国政府の承認」という日露講和条約仕上げの交渉に入ったのは1905年の11月17日でしたが、会談は難航しました。
 清国側はこの機会に、ロシアに認めていた特権を少しでも少なくしようとし、鉄道守備兵問題では日本軍を撤退させ、代わりに清国兵を配置して鉄道保護に当たらせる案を出してきたのです。
 これに対して小村は、「日本の心配は再びロシアと戦争になることだ。だからロシアが北満州の鉄道守備兵を撤兵させれば、日本も撤兵する」。いわばロシアに下駄を預ける形で清国の同意を取り付けたのですが、小村にはロシアが撤兵を承知するはずがないとの読みがあったのです。
  小村は政府への報告で、「ロシアがウラジオストックを保有している限り、その鉄道守備兵を徹することのないのは明瞭だ。だからロシアと同時に撤退することにしておけば、日本は適当と認める時期まで守備兵を置くことができる」とこう報告しています。
 事実ロシアは引かず、日本は1906年7月に独立守備隊第一大隊を編成したのを手始めに、奉天など主要駅に6個大隊を配置、線路の巡回警備に当たらせたのです。

現代史に学ぶ 永原実歴史講座 第10回 満州 日米対立の火種 より引用。

「満州に関する日清条約」が締結される

22回の会談の末、「満州に関する日清条約」が締結され、清国はロシアの満州での権益を日本が引き継ぐことを認めました。
 しかしこの条約の特徴は、むしろ同時に結ばれた付属協定にあったと言ってよいでしょう。付属協定では、日本が戦争中、軍事鉄道として敷設した安東ー奉天間の鉄道を日本の物として改修、運用すること、そして最も大切なことは、満鉄と並行する鉄道を建設しないことを清国に約束させたのです。
 満鉄は満州を縦断する唯一の幹線ですから価値が大きいのです。これは南満州を日本の勢力範囲とするための重要な規定であり、満州の利権に対する欧米列強の進出を防ぐ狙いを持っていました。
 こうして満州経営の第一歩は、清国の保証を得て踏み出すことになったのです。

現代史に学ぶ 永原実歴史講座 第10回 満州 日米対立の火種 より引用。

評判の悪い、占領地の軍の行政

 占領地に残った2個師団は、戦争が終わった後も軍政を続けました。治安を守るという名目で軍が行政権を握ったのですが、これが大変評判が悪かったのです。
 撤兵期限の1907年4月までに、日本が有利になることは何でもやってしまおうと、占領軍気分で勝手気儘に振る舞いました。ロシアに勝ったというので威張りちらしました。
 日露戦争で第2軍管理部長として従軍した石光真清が、戦後満州を旅行して意外に思ったのは、戦争中あれほど満州市民に対して協調的だった日本軍が、まるで占領軍のように満州市民を敗戦国民として扱い、馬鹿にしている態度でした。石光は「駐屯部隊の傍若無人ぶりを見て、心が痛んだ」と手記に書いています。
 軍政を担当する軍政著が、言うことを聞かない清国の役人は首にしてしまう。税金の徴収も日本の軍隊がやりました。
 営口という港では、軍需品の荷揚げに船を横付けできる岸壁が必要だというので、取り上げた関税で勝手に作ってしまいました。清国とすれば、本来は自分の関税収入が日本の軍事目的に使われ自由にならないのだから、怒るのも当然です。
 しかし、武力の脅しで命令されれば、泣き根入りしかありません。満州の人々にとっては、横暴なロシア兵が横暴な日本兵に代わっただけでした。日本人を「トンヤンキー」「東洋の鬼」と呼んで嫌うようになり、日本の軍政に対する反感が、急速に占領地に広がっていったのです。

現代史に学ぶ 永原実歴史講座 第10回 満州 日米対立の火種 より引用。

満州軍総司令部は1905年7月1日から、日本人にだけ、南満州での居住・営業を許可

「満州にいけば何とかなる」、仕事を求め満州に出かける「満州ブーム」も起こりました。
 商社や銀行、運送会社の支店、出張所が各地に作られ、旅館、飲食店から売春宿といった個人業者が小さな町にも入り込んで、中には「濡れ手に粟」の一旗組もいました。この日本人が虎の威を借りて威張り、また軍隊も公然とバックアップしたのです。 
 ポーツマス講和会議の開催が決まると、満州軍総司令部はいちはやく、1905年7月1日から日本人にだけ居住・営業を許可しました。もちろん外国人は締め出したままです。
 占領地の軍政を担当した井口省吾少将、この人は満州軍後宮参謀として児玉源太郎が最も信頼した一人ですが、「戦後満州における利益の基礎を固め、将来におけるわが文明扶植の地歩を作るためだ」と訓示しています。
 日本人をいちはやく満州に入れて、戦後における経済独占の先兵にしようという魂胆でした。「門戸解放」の約束は、まず満州の日本軍から破られていったのです。

現代史に学ぶ 永原実歴史講座 第10回 満州 日米対立の火種 より引用。

鉄道に付属する「付属地」として、日本は奉天など満鉄沿線の要衡を占める土地を取り込んでいく

 日本がロシアから譲り受けた東清鉄道には、講和条約第6条により鉄道に属する一切の権利と財産、炭鉱が付いています。
 鉄道用地そのものは、路線を中心にたった62mの狭いものなのですが、鉄道に付属する「付属地」といううのが、曲者だったのです。
 鉄道には線路だけでなく、停車場も必要だし、操車場や倉庫、従業員の宿舎も必要です。
 しかもロシアが東清鉄道建設にあたって清国と結んだ条約では、鉄道会社が経営に必要なら周りの土地にも行政権を持つこと、つまり租界と同様の排他的支配権も認めさせていました。
 ロシアの方は、清国の主権尊重は建前だけ、警察権を取り上げて軍隊を配置しただけでなく、駅周辺の広大な市街地まで付属地にしてしまったのです。
 こうして鉄道線路はほんの一部で、市街地が大部分と謂う「ちっちゃな植民地」が、東清鉄道のあちこちに出来ました。
 この特権はそのまま日本のものになり、日本はさらに付属地拡大にかかったのです。満鉄の終点となった長春では、150万坪という広大な土地を50万円で買収し、満鉄付属地にしました。
 要するに日本は、軍政を敷いて外国人は締め出したまま、1905年7月1日から日本人を一足早く南満州に入れて居住、営業を許可する一方、東清鉄道のあちこちに付属地を獲得、拡大していったのです。

現代史に学ぶ 永原実歴史講座 第10回 満州 日米対立の火種 より引用。

日本の軍政には、米英からも強い不満が出てきました

 イギリス船が大東江という港で繭の輸出貿易を再開しようとしたが、日本軍にはねつけられた。ロンドンの煙草会社は、奉天に入れないので営業活動が出来ない。紡績や砂糖の貿易に重大な障害が出ている。こんな苦情が外務省に殺到したのです。
 一方、日本の紡績業には新しく満州の市場が大きく開けました。鐘紡は花形株になり、日清紡などの紡績会社も次々と営業を開始し、莫大な利益を上げていきました。
米英からは、西園寺首相や元老の伊藤に厳重な抗議が相次ぎました。
 アメリカの国務長官は「日本が撤兵を完了する頃には、他の国の通商上の余地は極めて稀か絶無だろう。こうした行動は合衆国政府の甚だ痛惜する処である」。
 またイギリス大使マクドナルドも「英米の貿易会社では、日本の軍官憲による満州での閉鎖主義は、ロシアの場合よりひどいと公言されている」と指摘した上で「日露戦争に際し諸外国が日本に同情を寄せ、軍費を提供したのは、日本が門戸開放主義を主張し、この主義のために戦うことを明らかにしたからだ。このまま進めば日本は友好国の同情を失うだろう。自殺的政略と評するの他なし」と、軍政の早期撤廃を求めてきました。
 満州問題は西園寺内閣にとって、もはや一日も放置できない重要問題となってきたのです。

現代史に学ぶ 永原実歴史講座 第10回 満州 日米対立の火種 より引用。

伊藤は「満州問題に関する協議会」を招集する

  元老の伊藤は、英米両国との提携を戦後対外政策の基本と考えていましたから強い危機感を抱いていました。1906年5月22日、首相官邸に緊急会議を招集させたのです。名称が「満州問題に関する協議会」。出席者は伊藤はじめ5人の元老全員、西園寺首相以下大蔵、外務、陸海軍大臣の主要閣僚、さらに前首相の桂太郎と前海軍大臣の山本権兵衛、参謀総長の児玉源太郎の13人です。満州問題の国策を決める日本の最高首脳会議でした。
 会議は始終伊藤がリードし、その矢面に立ったのが陸軍を代表する形の児玉です。伊藤はまずイギリス大使の手紙を紹介して、「こんな状態では列強の物議をかもす。このまま放任したら、満州だけでなく、中国全土の人心は日本に反抗するに至るであろう」。こう前置きして、軍政批判に入ったのです。

現代史に学ぶ 永原実歴史講座 第10回 満州 日米対立の火種 より引用。

外務省の「外交文書」に残っている伊藤と児玉の激論

 外務省の「外交文書」に残っている伊藤と児玉の激論を見てみると、伊藤という人が日本の国際的地位について、実に鋭い洞察力を持っていたことが分ります。
 「軍政署なるものがある。此れに関する規定を見ると、清国人が不満を唱えるのも当然であろう。今日ロシアから譲渡されたものを保持するのは当然で、何人も意義をさしはわむはずはない。
 しかるに実際の事実は、この範囲の外に出つつあるのだ。軍事当局者は撤兵期限は18か月であるから、明年(1907年)4月までは戦争中同様、軍事的措置をとって差支えないとの解釈だそうである。この解釈に基づき、あるいは様々なる事業に着手し、あるいは租税を徴収しておられるようである。かくのごとき解釈をとられるのは、余のはなはだ了解に苦しむところである」。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「満州における軍政施行要領なるものを見ると、名は軍政署であるが、その実は民政庁である。ことに施政方針を云々して、満州を目するに新占領地を以てするが如きは、徹頭徹尾、軍政以外に進出しているものと言わなければならぬ」。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 児玉も軍政施行要領が不適当であることを認めます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 児玉が「満州経営」という言葉を使って、拓殖務省のような新しい組織を提案するに至って、伊藤の怒りは爆発しました。窓ガラスが震えるほどの大声だったといいます。
 「児玉参謀総長等は満州における日本の地位を根本的に誤解しておられるようである。満州方面における日本の権利は、講和条約によって露国から譲り受けたもの、すなわち遼東半島借地と鉄道以外には何もないのである。

現代史に学ぶ 永原実歴史講座 第10回 満州 日米対立の火種 より引用。
 

満州は決して我が国の属地ではない。純然たる清国領土の一部である。

 満州経営という言葉は戦時中から我が国人の口にしていた所で、今日では官吏はもちろん、商人などもしきりに満州経営を説くけれども、満州は決して我が国の属地ではない。純然たる清国領土の一部である。
 属地でもない所に、我が主権が行われる道理がないし、従って拓殖務省のようなものを新設して事務を取り扱わしむる必要もない。満州行政の責任は、宜しくこれを清国に負担せしめねばならぬ」。
 火を噴く様な伊藤の発言に、改めて優れた国際認識と、問題にぶつかった時のリーダーシップに感心します。西園寺首相を助け、軍を内閣のコントロール下に置いた、見事な文民統制でした。
 それにしても、伊藤が3年後の1909年にハルピンで暗殺されていなかったら、せめて「満州は日本の属地ではない。純然たる清国領土の一部である」。この伊藤の見解が、日本の外交の大方針として確立されていたら、その後の日本の針路はかなり変わったものになっていたのではないでしょうか。
 西園寺首相は決議案の纏めに入り、戦時組織である関東総督府は平時組織の関東都督府に改める。軍政署は領事のあるところは直ちに、その他も順次廃止する。つまり軍政の撤廃を決めて、全員が署名しました。
 こうして奉天は1906年6月から解放され、軍政問題は一応落着しました。

現代史に学ぶ 永原実歴史講座 第10回 満州 日米対立の火種 より引用。

軍政問題は一応落着したが、問題の根は深かった

 というのは、日本が譲り受けた東清鉄道には付属地という「ちっちゃな植民地」が付いています。鉄道経営ということは、その植民地を経営することであり、日本を否が応でも大陸に向かわせることになったのです。
 大陸から海で隔てられた列島にあった日本が、大陸に目を向け、満州の利権を独占しようとしたところに、最初の躓きがあったと思われます。
 日露戦争は米英の経済的支援があって初めて成立し、日本は米英の経済圏に入ることで生存できるのです。ところが満州をめぐって米英と対立路線を歩むうちに、次第にその基本条件を忘れてしまったのです。

現代史に学ぶ 永原実歴史講座 第10回 満州 日米対立の火種 より引用。

満鉄が日本独占の形で創立された

 1906年6月に入ると、南満州鉄道会社設立の勅令が交付され、設立委員長には児玉源太郎が就任しました。児玉は満州に通じた軍人であり、しかも台湾統治の輝かしい実績があります。そして、後藤新平の満州経営構想が走り出すわけです。
 総裁就任の要請を受けた後藤は1906年7月22日に児玉を訪ね3時間ほど話し込んでいます。児玉はその翌朝未明、脳溢血で53歳の若さで急死しますが・・。
 8月1日、満鉄設立委員に出された政府命令は、満鉄が付属地の土木、教育、衛生の事業を行い、その費用を住民から取り立てる費用を与えています。
 学校の先生まで満鉄の社員だったのは、この命令によるもので、満鉄は行政権も持つ日本最大の国策会社としてスタートすることになったのです。
 ロシ時代の東清鉄道は、形だけは清国との合弁会社でした。ですから満鉄も、株式を持てるのは日清両国政府とその国民に限るとし、清国にも株式の公募開始を通知しました。
 しかし清国政府は、日本の一方的なやり方に抗議しただけで応募してこなかったのです。満鉄は重要業務に関しては日本の認可を必要としていましたし、政府が指定すれば、いつでも鉄道や土地を提供する義務を負っていました。こんな規定を見ると、清国に対してはポーズだけ。最初から満鉄に清国を入れる積りはなかったようです。
 資本金2億円のうち、政府出資の1億円は鉄道の現物出資です。残りの民間募集の分については、「満州は儲かる」との匂いを嗅ぎつけ、競争率が1千倍を超す応募となりました。当然のように、何人かあった清国人の申し込みは無視され、満鉄は日本独占の形で創立されたのです。

現代史に学ぶ 永原実歴史講座 第10回 満州 日米対立の火種 より引用。
 

こうした満州での日本に、遠くアメリカから警告した日本人がいました

 エール大学教授の朝河貫一です。朝河は早稲田大学の前身、東京専門学校を卒業すると22歳で渡米、1947年に亡くなるまでほとんどアメリカで過ごしてた人です。
 朝河は1908年11月に「日本の禍機」日本の禍の時期と題して「世界に孤立して、国運を誤るな」と警告したのです。「戦前世界がロシアに持っていた悪感情は、いまや転じて日本に対する悪感情となり、当時日本に懐いていた同情は、いまや清国に対する同情となった」。
 朝河はこう前置きして、アメリカが日露戦争で日本に同情したのは、清国の主権と、門戸開放を主張する堂々の正義の声だったからだ。日本が今のように背信と邪な行為を続けるなら、東洋の正義を守る任務は勢いアメリカが負うことになり、日米戦うの不幸を見ることになるだろう。
 朝河は33年後の日米戦争を予測し、こうも言っています。「日本の最も恐るべきところは、清国に非ず、欧米諸国に非ず。実に己を不正の地に陥れ、清国および欧米をして、正義の側に立たしむるにあり」。

現代史に学ぶ 永原実歴史講座 第10回 満州 日米対立の火種 より引用。

1912年の辛亥革命により満鉄存在の法的根拠は揺らぐ

 1911年に、中国では孫文らによって辛亥革命が起こり、清国が倒れて共和制が敷かれます。翌年1912年には南京を首都として中華民国がつくられました。
 といっても簡単に統一されたわけではなく、方々にいた軍閥がぶっつかり合い、国民党軍と戦ったり、また国民党軍内部で勢力争うがあったり、さらに少し後には成立した共産党軍国民党軍と衝突したりで抗争が絶えず、中国がは混乱を続けていました。

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