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日露戦争で得た満州権益の独占が火種となって日米戦争へ[6]

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日露戦争の勝利

 前項で述べたように、日本はロシアの脅威の性質を正確に認識し、日英同盟を結び、日露戦争に踏み切って、これに勝ちます。この戦争での日本軍の強さ、とくに日本海戦で日本海軍の精強さは、世界の脅威となります。おそらくは日本人自身も、こんなに戦争に強いと自分でも思わなかってほどの見事な戦いぶりでした。

戦略的思考とは何か 岡崎冬彦著より引用。

日英同盟の効用(1)

 しかし実は、これだけの戦闘能力があっても、日英同盟なしでは戦争に勝てたかどうか疑わしかったのです。
 これは戦略的発想と密接に関連することですが、戦争というものは、もとより個々の戦闘員の能力、勇気だけで勝てるものではありません。まずは、武器、弾薬、糧食が要り、それに先立つものであるお金が要ります。
 日露戦争は、国民の税負担はもう限界を超え、英、米における外債の調達なしには戦えなかった戦争ですが、英国との同盟は当時の世界では他に得られない高い対外信用を日本に与えています。そのことも小村意見書のなかで日英同盟のプラスとして、ちゃんと計算に入っています。
 そうやって外貨を調達したうえでもポーツマス条約の直前に、戦争継続の可否が問われたときに,松方、井上などの財政の長老は、もうこれ以上軍事費の出しようがないと断言しています。つまり、アングロ・サクソンの財政的後盾なしでは、はじめからお金がなくて、戦争にならない戦争だったといえます。

戦略的思考とは何か 岡崎冬彦著より引用。

日英同盟の効用(2)

 その次には、その苦心して集めたお金で武器を調達するにあたっても英国の世話になっています。
 英国で建造中のチリ戦艦2隻をロシアが買おうとし、日本がモタモタしていると見ると英国は即金で自国用に買っています。
 またイタリアで建造中の巡洋艦2隻については、、英国はいち早く日本に情報を提供しテ、ロシアより一足早く日本に買わせています。英国の介入がなければ、ロシアは海戦時、戦艦と巡洋艦で、日本より差引6隻多かったはずです。これだけでも決定的といえるくらいの差で、日本海海戦の大勝利もありえなかったでしょう。現にこの2隻の巡洋艦「日進」と「春日」は、日露戦争を通じて大活躍します。
 その他にも有形無形のいろいろの援助はあるのですが、なんといっても、七つの海に日の沈むところなく、世界中の情報を一手に握っていた英国から、国際情勢の動きを刻々教えてもらう立場にいたことは、大変なことでした。すでに述べた財政とともに、日本の一番弱いところを補ってくれたかたちになります。

戦略的思考とは何か 岡崎冬彦著より引用。

お金の算段ー外債の発行ー引き受けてくれる国は

 1904年2月4日の御前会議で日露開戦は決まるのですが、実は、お金の問題こそが、戦争に当たっての日本の一番大きな悩みでした。
 2月4日に日銀が持っていた金貨はわずか1億1700万円しかありませんでした。しかも輸入品の決済に充てる分などを差し引くと、正味使えるのはたったの5200万円です
 このことは元老や政府首脳はもとより、陸海軍の首脳もよく知っていました。国中が戦争一色に染まっていく中で、首脳部の頭からいつも離れなかったのが、戦費をどうするか、お金の問題だったのです。

現代史に学ぶ 永原実歴史講座 第2回日露戦争と情報より引用。

政府の戦争の見積費用は4億5千万円でしたが・・・

 政府は、戦争にかかる費用を4億5千万円と見ました。日清戦争が2億2千万円かかったから、戦争期間を1年としてその2倍見ておけばよかろうと思ったのです。結果的に戦争が1年半かかったとしてもこの見通しは大甘でした。
 臨時軍事費として特別会計で処理された日露戦争の戦費は、陸軍が12億2千万円、海軍が2億4千万円、各省庁の関係費用を入れると実に19億5千万円と、予測の4倍以上もかかったのです。武器の進歩で近代戦になったこともありますが、やはり金食い虫でした。

戦争現代史に学ぶ永原実歴史講座 第2回日露戦争と情報より引用。

戦争が長引いても続けるだけの経済が日本にあるのか

 2月4日の御前会議では、元老の伊藤や井上から「戦争が長引いても続けるだけの経済力が日本にあるのか」。こんな深刻な質問が大蔵大臣の曾弥荒助に集中しました。正直に答えれば、とても長期戦に耐える力はありません。
 曾弥が何度か立ち往生すると、元老松方正義が助け舟を出し、やっと「開戦やむなし」の結論になったと云います。事実元老たちは素早く行動を起こしたのです。
 戦争が始まって間もない2月24日、横浜から2人の要人がアメリカに向けて出発しました。一人は日銀副総裁の高橋是清であり、もう一人は貴族院議員の金子堅太郎です。

現代史に学ぶ 永原実歴史講座 第2回日露戦争と情報より引用。

高橋の渡米

 高橋の渡米は戦費調達の外債募集が目的でした。壮行会で挨拶に立った井上馨は、「もし外債募集がうまくゆかず、戦費が整わなかったらどうなるか。高橋がそれをやってくれなければ、日本は潰れる・・・」。後は込み上げてくる涙で、言葉にならなかったそうです。
 高橋が政府から命じられた外債額は1億円でしたが、ニューヨクへ行ってみるとアメリカ自体が産業振興の真っ只中です。外資導入に懸命になっている時で、とても日本の外債どころの話ではありません。

現代史に学ぶ 永原実歴史講座 第2回日露戦争と情報より引用。

高橋ロンドンに渡る

 高橋は日英同盟にすがる思いでロンドンに渡りましたが、ここでも日本びいきの気分と、お金の世界は別でした。「日本が負ける」という声が圧倒的で、日本に金を貸すのは投資ではなく投機だと云うのです。
 それでも高橋は粘り強く交渉し、4月半ば過ぎには何とか500万ポンド、日本円にして5000万円をイギリスの銀行に引き受けてもらいました。
 残り5000万円をどうするか、高橋が頭を痛めているいるところへ、ユダヤという思いかけない人種問題が高橋を助けることになったのです。高橋がイギリスの友人に招待されてパーティーに出席した時です。

現代史に学ぶ 永原実歴史講座 第2回日露戦争と情報より引用。

ニューヨークの有力なユダヤ系金融機関「クーン・レーブ商会」の会長ヤコブ・シフ

 たまたま高橋の隣に座ったのが、ヤコブ・シフというニューヨークの有力なユダヤ系金融機関「クーン・レーブ商会」の会長でした。シフは全米ユダヤ協会の会長をしており、ヨーロッパ旅行の帰りにロンドンに立ち寄ったのですが、高橋は聞かれるままに、戦争が始まってからの日本の様子、外債のことを話しました。
 すると驚いたことに、翌日シフの使者が高橋を訪ねてきて、残り5000万円をニューヨークで発行することを条件に、全額引き受けるというのです。
 シフが高橋に協力を申し出たのは、ロシアに500万人もいるユダヤ人を助けたかったからです。

現代史に学ぶ 永原実歴史講座 第2回日露戦争と情報より引用。

帝政ロシアの歴史は、ユダヤ人虐殺と迫害の歴史でした

 ロシア正教への改宗を迫って、言うことをことを聞かないと殺してしまう。シフは迫害を止めることを条件にお金を貸しましたが、おとなしくしているのは借りた当座だけ。1年も経たないうちに、また始まります。
 絶望したシフは、この戦争に日本が勝てば、ロシアに革命が起こって帝政ロシアが倒れるに違いない。そう思って高橋に全面協力を申し出たのです。
 最初1億円の予定だった外債は、戦費が膨れ上がって次々と発行することになりましたが、シフはその都度、半額ずつを引き受けてくれたのです。日本にとってはまさに命の恩人でしたが、ある意味では日露戦争は、ユダヤ資本と帝政ロシアとの戦いでもあったのです。

現代史に学ぶ 永原実歴史講座 第2回日露戦争と情報より引用。

第1回公債1億円は買い注文が殺到する大人気

 5月に入って第1回公債1億円を売りに出すと、ロンドンでもニューヨクでも買い注文が殺到し、行列が出来るほどの人気でした。
 帰国したシフが、アメリカの新聞に連日のように日本公債のことを書かせたところへ、鴨緑江を渡った日本軍の勝利をタイムズが速報し、あっという間に人気が上がったのです。
 日本勝利の報道で日本公債は人気を呼び、合計4回にわたって8億2千万円を集めることが出来ました。こうして高橋一人で集めた金は、日露戦争の戦費の42%にもなるのですから、まさに殊勲甲の働きと云ってよいでしょう。

現代史に学ぶ 永原実歴史講座 第2回日露戦争と情報より引用。

金子堅太郎の布石はアメリカの世論工作

 高橋是清の布石が外債の金集めなら、金子堅太郎の布石はアメリカの世論工作でした。御前会議で日露開戦が決まった2月4日の夜、金子は霊南坂の伊藤博文の宿舎に呼び出されました。
 伊藤がおもむろに口にしたことは、アメリカへ行ってほしいということでした。

現代史に学ぶ 永原実歴史講座 第2回日露戦争と情報より引用。

アメリカの世論が日本に同情するよう、有利に導いてほしい

 伊藤をはじめとする元老たちは、戦うにしても短期決戦、潮時をみてさっさと講和に持ち込まないと、国力の弱い日本が負けることをよく知っていました。問題はどの国に講和を斡旋してもらうかでした。
 それはアメリカを措いて外になくアメリカ世論を味方につけてルーズベルトに動いてもらおうという狙いだったのです。金子は1871年、福岡藩の留学生として岩倉使節団といっしょに渡米し、そのまま8年間もアメリカに残って、ハーバード大学を卒業したアメリカ通です。
 伊藤が頼りにしたのは、金子が時のアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトとハーバード同窓だったことです。

現代史に学ぶ 永原実歴史講座 第2回日露戦争と情報より引用。

金子は「とても自信がない」と断りました

 アメリカは国民感情からしてロシア寄りの国だと云うのです。南北戦争の時イギリスが南軍についたのに、ロシアは今の政府の北軍を助けた。そのことを今でも恩義に感じているし、それにアメリカの大金持ちは大半がロシアの貴族と親戚関係になっている。
 ロシアの軍需品はみなアメリカから買っているし、貿易上でもロシアはアメリカの上得意だと云うのです。

現代史に学ぶ 永原実歴史講座 第2回日露戦争と情報より引用。

伊藤はひるまず金子を説得します

 「もしロシア軍が九州に上陸してきたら、自分は一兵卒として銃を執って戦うつもりだ。君も最初から成功しようと思うのではなく、国家のために身を投げ出すつもりで、やれるだけやってみてくれ」。
 最後は伊藤の熱意に動かされる形で、金子はアメリカ行きを承諾したのです。

現代史に学ぶ 永原実歴史講座 第2回日露戦争と情報より引用。

金子の使命は重大であり期待は大きかった

 海軍大臣の山本権兵衛は、金子に「日本の軍艦は半分は沈める覚悟だ。それでも勝利を得るために、何か良い方法を考えている」と云ったそうです。
 金子への期待がいかに大きく、しかもその使命が重大だったかは、翌朝、美子皇后がわざわざ金子の自宅を訪ね、「宜しく頼みます」と言葉をかけられたことからも分ります。
 外務大臣の小村寿太郎が金子に指示したことは、日本が妥協のためにあらゆる手段を尽くしたことをアメリカ国民に知ってもらうということでした。

現代史に学ぶ 永原実歴史講座 第2回日露戦争と情報より引用。
 

日本が妥協のためにあらゆる手段を尽くした

 日英同盟条約(1902年)をつくる直前までペテルスブルグを訪問して何とか満韓交換論で日露の間に話し合いがつかないかと伊藤博文は努力しました。満韓交換論とはロシアの満州支配を認める代わりに日本の韓国における優位を認めさせようとするものです。
 また、日英同盟ができた後で、ロシアのシベリア鉄道も完成し、大軍が続々と満州に送り込まれ、日本がもはやこれまでと観念して開戦にふみ切ろうとしたときに、最後に待ったをかけたのは山縣有朋で、もう一度満韓交換論でロシアが納得しないか確かめてからにしたい、というのがその論拠です。
 しかし交渉の結果はいつも同じで、ロシアは、満州は俺のもの、韓国は日露間で中立、という線を譲りません。中立というのは勢力未確定ということで、そうなれば結局は力の強いロシアが勝つということです。

戦略的思考とは何か 岡崎冬彦著より引用。

アメリカの空気ははるかにロシア寄りだった

 金子がアメリカに行った時も、アメリカの空気ははるかにロシア寄りでした。ロシア政府はニューヨクの新聞に金を出して、「ロシア優勢」の記事を書かせていましたし、日本を軽蔑して「小さな黄色い猿」という言葉を使っている新聞もありました。
 金子は新聞に論文を載せたり、アメリカ各地を公演して回ったりして、日本の立場を説明しましたが、アメリカの世論を大きく日本に味方させるとなると、頼みはやはりルーズベルト大統領しかいません。

現代史に学ぶ 永原実歴史講座 第2回日露戦争と情報より引用。

ルーズベルトとの会見

 実は金子とルーズベルトはハーバードではすれ違いで、在学中は知らないのです。1889年、金子は伊藤博文の指示で議会制度を調べるために渡米した時、日本美術の愛好家に紹介されて知り合いになったのです。
 ハーバード同窓ということで意気投合し、「テディ」、「ケン」と呼び合う仲間になりました。偉くなる前に知り合ったので、遠慮のない友達同士になったと云います。
 1904年3月の末、金子がホワイトハウスを訪ねると、数十人の面会者が待っているというのに、ルーズベルトはわざわざ出てきて、金子の肩を抱くようにして部屋に招き入れました。
 そして「自分は政治家として、ロシアの皇帝による専制政治を好ましく思っていない。アメリカ政府の上層部も、一様に日本に好意を持っていることを知ってほしい」と云うのです。金子は前途にパッと光明を見る思いでした。早速「極秘情報」として、小村に会見の詳細を報告しました。

現代史に学ぶ 永原実歴史講座 第2回日露戦争と情報より引用。

仲介の意思があることをルーズベルトが表明

 5月の末ルーズベルトははこう切り出したのです。「ロシアも戦争の終結を考えなければならない時が来ると思う。その時は自分が講和の斡旋に尽力したいと考えている」。金子が渡米してから3か月後のことでした。
 そのルーズベルトの尽力のおかげで1905年9月ポーツマス条約締結に至り、国力の限界に近づいていた日本が、とにかく勝利をもぎとることが出来たのですから、金子のアメリカ工作もまた殊勲甲だったと云えるでしょう。
 それにしても、開戦と同時に戦争終結の布石を打つ伊藤の周到さに、明治の政治家は偉かったなと、つくづく感心させられます。

現代史に学ぶ 永原実歴史講座 第2回日露戦争と情報より引用。

あまりにもうまくいきすぎた日露戦争の終結

 こうして日本は、日露戦争の結果、幕末、維新以来の日本の安全保障の問題を全部解決します。
 アヘン戦争(1840年~1842年)以来アジアの脅威であり、かつ当時世界の最強国であるイギリスは、日本の確固たる同盟国であり、それだけでも日本の安全は盤石です。
 すでに、バルチック艦隊撃滅の前に、イギリスは、日本が予想外によく戦っているのを見て、同盟国としての価値を再評価し、かたがた、日本がロシアとの妥協に政策転換して日露にアジアで共同戦線をはられてはかなわないという判断もあったようで、日英同盟を、どちらか一国がが攻撃されれば他方もすぐ参戦して、一緒に戦争をして講和も双方合意の上に行うという本当の攻守同盟に改定することを提案して、日本はこれを受けます。これだけでも、当時の日本に挑戦できる国はありえないはずです。
 そのうえに、朝鮮半島からは日本の安全を脅かすような勢力は完全に排除され1910年の韓国併合によってその状態は確定します。
 清国は日清戦争以来力の実体でなく、ロシアの極東における海軍力は完全にそうめつされ、将来の報復、再戦の可能性は残されているものの、日英同盟がこれに対する保障となっています。

戦略的思考とは何か 岡崎冬彦著より引用。

勝敗は6分か7分勝てばよい・・9分10分の勝利は大敗を招く下地になる

 「勝敗は6分か7分勝てばよい。8分の勝利はすでに危険であり、9分10分の勝利は大敗を招く下地になる」というのは「甲陽軍鑑」の中の武田信玄の言葉ですが、まさにその後の日本帝国の運命を暗示して妙です。
 事実、この時期から第2次大戦まで近代日本が直面する国際政治、安全保障、防衛の諸問題のもとは、ほとんど全部、日露戦争前後の時期に出そろっています。

戦略的思考とは何か 岡崎冬彦著より引用。

日本海海戦の大勝利

 日本海海戦の結果は、日本の大勝利でした。それも並みの勝ち方ではありません。対馬海峡を突破しようとしたバルチック艦隊は総勢38隻。
 そのうち半分の戦艦6隻を含め19隻を撃沈、戦艦など7隻を捕獲。後は逃走中に沈没したり、マニラや上海に逃げ込んで武装解除されたりして、目的地のウラジオストックに辿り着いたのは、駆逐艦など小艦艇たった3隻です。
 しかも司令長官ロジェストウンスキー中将以下6千人を超す将兵が捕虜になり4500人が戦死したのに対して、日本の損害は水雷艦3隻沈没、戦死116人、まさにパフェクト・ゲームでした。

日露戦争の終わり方

ここで、日露戦争全般を見渡してみましょう。
 奉天の会戦で日本は勝ってロシアは後退しますが、会戦後余力を残していたのはむしろロシアの方で、日本は軍事力、財力がすでに限界まできて、とくに将校の消耗がはなはだしく、もうこれ以上前に進めない状態になります。

明治の元老の、用意周到に戦略を立てた慎重さは、第二世代では無くなっていった

 後に明治の元老と呼ばれる人たちは、当時の最強国イギリスと日英同盟を締結し、さらに、戦費の捻出に高橋是清を派遣し、アメリカの同情を得るために金子堅太郎を派遣するという見事な人材活用をも実行しています。
 これに対して、明治の第二世代は、武力一辺倒に陥ります。日露戦争終結(1905年)後も満洲解放宣言に反して満州から撤兵せず閉鎖政策をとり、1906年には関東都督府(関東軍の前身)を置きました。
 1915年には1912年に建国されたばかりでまだ弱体な中華民国政府に「対華21ヶ条の要求」を武力で無理やり認めさせます。日本に対する反感がいやでも大きくなっていきます。
 さらに、謀略をも用いて満州某重大事件をひきおこし(1928年)、その延長として中国に満洲国を建国し(1932年)、国際連盟を脱退し(1933年)国際社会から孤立していきます。そしてその満洲国を超えて中国大陸に侵略していきます(1937年)。あげくに英国・米国をとの戦争(1941年)にまで突入していくのです。
 このように世界中を敵にまわすようなことをして勝てるわけはありません。要するに第二世代には戦略がなかったのです。
 第二世代は、明治の元老が日露戦争がいかなる世界戦略の下で戦い、その結果勝ったのか、よく分っていなかったように思われます。
 

昭和の陸軍が内蔵する致命的欠陥・・完全な戦略白痴状態になっていたのに気付かなかった

 島貫重節氏の「戦略日露戦争」に、今村大将の言葉と森中将の言葉が見えます。

今村大将の言葉

 今村大将は、太平洋戦争敗戦後自ら志願して、戦犯となった部下とともにマヌス島の監獄に服役し、帰朝後も1坪の小屋で起居して戦争責任を自らに課されて方の由ですが、「実は俺も齢80にして初めて覚ったことであるが・・・日露戦争であれだけの偉業を打ち立てた我が国がわずか40年で惨敗を喫したことは・・・みずから内蔵する致命的欠陥のためではなかったか。そのためには日露戦争の真相そのものの調査からその根本を洗い出して見る必要がある・・・」と語られた由です。

 そして島貫氏は、日露戦争で、日本がいかに情報と戦略を重視して、これに最良の人材を投入したかを手に入るだけの資料を集めて紹介されたあとで、

 終戦時、戦争継続のための反乱に断固応じず、部下のために射殺された、最後の近衛師団長森中将が敗戦間近の防空壕の中で島貫氏に語った言葉を次のように引用しています。

戦略的思考とは何か 岡崎冬彦著より引用。

最後の近衛師団長森中将の語った言葉

 日露戦争そのものが、いかなる世界戦略の下で戦われ、その結果が勝ったかどうかも分かっていない日本が、その後どうするかと考えもしなければ、考える方法もなかったのが実態だった。・・・何故に陸軍は情報を軽視するようになったのか。
 それは戦略を無視したからである。なぜに戦略を無視するようになったのか。それは・・・戦略は極秘として記録されない習慣があり、そのために完全な戦略白痴状態になっていたのに気付かなかったためである。

戦略的思考とは何か 岡崎冬彦著より引用。

血を吐くような反省の言葉

 明治以来日本が培ってきた愛国主義の功罪はしばらくおくとして、国家、民族のためだけに一生を捧げる覚悟の多くの人材を育ててきたことは事実です。
 人格見識ともに当時の日本の最高水準の一部をなしていたそういう人々が、自分たちのしてきたことが崩れ落ちていくのを目のあたりにして、後世の人に遺そうとした血を吐くような反省の言葉は、今後われわれが国家戦略を考えるにあたっては民族の貴重な財産というべきでしょう。

戦略的思考とは何か 岡崎冬彦著より引用。
 

デモクラシーの社会における戦略

 たしかに戦略というのは裏の裏まで考えるものなので人に知られては困ることもあります。
 しかし、指導者だけは戦略が分っていて、それ以外は敵も味方も欺せるというような武田信玄の時代ならともかく、デモクラシーの社会では、皆が戦略的白痴になるか、誰でもが戦略を知っているかのどちらかの選択しかないわけですから、後者しかないでしょう。
 現にアメリカでは何もかもあけっぴろげで、アメリカの戦略は、ソ連の人でも雑誌を読めば分かるようになっています。だからこそ、アメリカでは軍人レベルでも戦略が分るようになっているわけです。

戦略的思考とは何か 岡本冬彦著より引用。

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