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高句麗の南下に対抗して百済と協力した事を隠す万世一系天皇支配の理念

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440年(庚辰年)に生まれた百済の王子・昆支は、462年倭国に来て、崇神王朝の入り婿となり

義兄・興の死んだ後、478年に即位して、倭国王・武を名乗り、5月に宋に遣使貢献して安東大将軍・倭王に任命された。
 武は応神であり、その在位年代は478年~506年(謎42 43 )。

応神による新しい国づくり

 宇佐八幡宮の言い伝えによれば、「応神天皇は大陸の文化と産業を輸入し、新しい国づくりをされた」とされているが、その具体的内容は次のようなものです。
(1) 応神(昆支・武)は、河内地方に従来の稲作技術からは導き出しえない新たな農業・土木・製鉄技術を身につけた百済系集団を、大量渡来させた。
  続いて、継体(在位507年~530年)、欽明=蘇我稲目(在位531年~571年)、用明=蘇我馬子(在位586年~626年 )も百済系集団を、大量渡来させました。
(2) 大量渡来させた百済系集団の技術とパワーを用いて淀川や大和川に堤防を築いて洪水を防ぐと共に、後背地に乾田に変える水路を作り、 羽曳野丘陵地帯に灌漑用水を供給するための貯水池(狭山池など)を多数築きます。
  このようにして百済系倭国の産業基盤が築かれ、新しい国つくりがなされたのです。
(3)そして、これらの大土木工事の延長上にあるのが、河内にある応神天皇稜や仁徳天皇稜の築造です。
  我々は、仁徳は継体の虚像であり、仁徳稜には継体天皇が葬られていると考えます(謎17 、謎18前編 ,中編 ,後編 、謎19前編 , 後編 )。

応神は、大陸の文化と産業を輸入し、新しい国づくりの端緒を開いた実績により

①偉大な始祖王として尊敬され、
②建国神として信仰の対象とまでなりました。謎81
 その応神は実は百済の王子・昆支だったのです。謎42 ,43 従って
天皇家のルーツは百済であると言って差し支えないでしょう。

ところが、その百済が660年に唐・新羅の連合軍に滅ぼされました

 百済の再興を賭けた663年の白村江の戦いでも倭国と百済の連合軍は大敗し(謎1 )、ついに百済は朝鮮半島から消え去ってしまいます。
 百済の滅亡は、百済の王子・昆支(応神・武)を始祖王とする天皇家にも深刻な影響を及ぼしました。根無し草となった天皇家が、日本を支配しているというはなはだ体裁の悪い結果となったのです・

そこで、天皇家が日本を支配するための正統性の理念が必要となりました

 そのために生み出されたのが、 天皇家は太初より日本国を支配しているという万世一系天皇支配論なのです。
(1)日本書紀は491年の後期百済系倭国の成立[謎26後編 のⅤ(3)]を隠し、天皇家が太初から日本列島を支配していたと主張するために、
 応神などの実在の大王(天皇)から、神武という架空の初代天皇を創り出し、辛酉革命説という中国の思想にもとづき、その即位年をBC660年にした。
(2)日本書紀は初代神武から第9代開化まで9人の架空の天皇を創り、第10代天皇として、前期百済系倭国[謎26 のⅢ(1)]の始祖・崇神をあてた。
①342年~379年に在位した旨(崇神)の在位年代(謎37 )をBC97年~BC30年として実に400年以上も繰り上げ、
②中国の史書に見える倭王・讃・珍・済・興の存在を隠し、その虚像として景行・成務・仲哀という架空の天皇と神功という架空の皇后を創って在位年代を繰り上げた。これにより、中国の史書に見える「倭の五王」に該当する倭王が誰なのかという謎が発生しました。
(3)百済系倭国を邪馬台国の後身と見せかけるために、神功を卑弥呼に見せかけ、神功を応神の母とした。これは、
①応神が百済の王子昆支であることを隠すと共に、
②応神王朝を邪馬台国の子孫と思わせるためである。
そのために478年~506年の応神の在位年代が270年~310年に繰り上がった。
(4)昆支(応神)の在位年代が、200年ほど繰り上がったために、昆支(応神)と継体の間に、第16代天皇仁徳から第25代天皇武烈までの10人の架空の天皇を創り出した(雄略は21代架空の天皇。謎33 )。
(5)継体が昆支の弟である(謎17 のⅠ、Ⅱ、Ⅲ)ことを隠して、万世一系を維持するために、継体を 
 ①応神5世の孫とし、
 ②越前の出身とした

しかし、万世一系天皇支配論をもってしても、日本と百済との関係を断ち切ることは出来ませんでした

なにしろ天皇家は百済王室の出身です。
  さらに百済人には、大陸の優れた先進文化を日本列島に持ち込んだという自負心もあったでしょう。
  日本書紀には、百済にからむ多くの記事を載せています。
    前期百済系倭国の王(在位478年~490年)でもあり、後に後期百済系倭国を建国した応神(昆支・武。在位491年~506年)について、百済王室との関係が、 
  「雄略紀」には昆支として、
  「武烈紀」には琨支として載っています(謎42 、謎43 )

前・後期百済系倭国はいずれも、騎馬民族系特有の徙民(しみん)政策(強制的集団移住政策)を軍事的・経済的目的から行いました。謎4

(1)高度な農業・土木・製鉄技術を身につけた百済人の集団が大量渡来してきて倭国の国つくりが行われたのです。
(2)しかも、その渡来者の数は常識をはるかに超える多数に及ぶものでした。
 「形質人類学」から、古墳時代・・342年~700年(701年の律令国家成立の前年)・・に朝鮮半島から常識を超える多数大量渡来があったことが指摘されています。
(3)東京大学の埴原和郎は、「4 骨から古墳人を推理する」[森浩一編「日本の古代5 前方後円墳の世紀」]で、次のように推計しています。
縄文時代の人口 弥生時代の人口  古墳時代の人口
約16万     約60万       約540万
そのうちの渡来者数 約26万強      約270万弱
 (4)古墳時代は
  ①古墳時代前期 342年~490年の前期百済系倭国時代
  ②古墳時代後期 491年~700年の後期百済系倭国時代
   に分けられ、
  最も多くの住民が強制移住させられた時期は
  古墳時代後期である。
  (5)日本書紀には応神時代に秦氏や漢氏が多数の住民を連れて渡来したと書かれているが、後期百済系倭国の大規模な徙民政策のほんの一部を記録しているにすぎない。
 (6)前・後期百済系倭国の大規模な徙民政策は、日本列島の住民の形質を大きく変化させました。
   (イ)被験者56,495人に及ぶ資料を整理した、大阪大学の小浜基次は、「生体計測学的に見た日本人の構成と起源に関する考察」(人類学研究 1960年4月号)で、諸形質の地域的な所見から、現代日本人を
長頭型(真上から見て前後に長い頭型)の東北・裏日本型と
短頭型(真上から見て丸い頭型)の畿内型の
二つに大別した。
東北・裏日本型はアイヌ系、
畿内型は朝鮮系。
そして
①アイヌを日本列島の先住民とし、
②畿内を中心として分布する短頭が朝鮮半島から渡来した集団によってもたらされたとしました。
(ロ)小浜基次の推論は遺伝学や言語学から導かれた推論とも一致しています

日本書紀は万世一系天皇支配で歪められています

それにもかかわらす非公式な形で史実をちりばめているのです。例えば
   神武という架空の初代天皇を創り出しながら、
   神武の本体は応神だということを
   両者とも
①即位した年令は、52歳
②死亡年令は、67歳
として暗示しています[謎43 Ⅱの(4),Ⅵ]。

日本書紀は、他でも同じように

架空の神功皇后を作りだし、「神功紀」で非公式に史実を記録するということをやっています

「神功紀」49年(249年。己巳年)条には、日本の荒田別らの将軍が多数の精兵を率いて、百済を助けたとあるが、これは前期百済系倭国王の崇神(旨・首露・脱解)が369年(己巳年)に大軍を百済に送って援助した史実を記録している(謎9)。
 崇神(旨・首露・脱解)が戦ったことを「崇神紀」ではなく、「神功紀」にきさいしているのは、「崇神紀」に記載すれば崇神が朝鮮半島の加羅の出身で、加羅地方にも領土をもっていたことが露見し、天皇家は太初より日本国を支配しているという万世一系天皇支配が崩れることを恐れているのです。
 

崇神の子・垂仁(在位389年~409年)については

中国に朝貢していないので、中国の史書には彼の記録はない。
  しかし広開土王碑に彼が倭王として高句麗と戦った年代(396年~404年)が記録されているが、広開土王碑に倭王の名が記録されていない。これを奇貨として、「垂仁紀2年(紀元前28年。癸己年。西暦393年)是歳条に、任那人ソナカシチが帰国する際、垂仁が任那王に送った赤帽を新羅人が奪ったので、両国(任那と高句麗と結んだ新羅)の争いがこの時初めて起ったと触れるに止め[謎91 の(4)]、西暦400年の大決戦については記録せず、『日本書紀』は垂仁の在位年代を、紀元前29年(壬辰年)~西暦70年(庚午年)に遡らせているのである。

架空の仲哀天皇を創り出し

架空の仲哀天皇を創り出し「仲哀紀」2年(戊辰年。西暦428年)正月条には、気長足姫尊を立てて皇后(神功皇后)とす。是より先に、叔父彦人大兄が女大中姫を娶りて妃としたまふ。カゴ坂皇子・忍熊皇子を生む。 とある。
  気長足姫尊(後の神功皇后)は架空の人物であり、その本体は百済のヒ有王の妹シセツヒメでもある(謎47 のⅣ)・・・もっとも、ヤマトタケルの子仲哀天皇も応神(昆支・武)の霊イタケルである。そこで基本的には、仲哀の后の神功は、イタケルのヒメ神=女神の崇神(大彦)の霊でアマテラスと同体なのであるが[謎51 のⅡ(2)]・・・。
  仲哀の本体は済(ホムタマワカ)であり、済(ホムタマワカ)は「仲哀紀」2年(戊辰年。428年)に、彼の祖父・讃(イニシキイリヒコ。在位410年~437年)の命により百済からヒ有王の妹・シセツヒメを嫁にもらったと考えられる(謎39 の系図、謎47 のⅣ)。したがって、皇后シセツ姫が生んだ興には百済王室の血が入っている。
  『日本書紀』は、公式にはシセツヒメの存在を隠して万世一系天皇支配を維持するために、架空の気長足姫尊(後の神功皇后)を作り出したのである。
  忍熊皇子は興の異母兄であり、済(ホムタマワカ)の入り婿となった応神(昆支・武)の義兄とみられる。

『日本書紀』は、公式には応神天皇を架空の仲哀と神功皇后の胎中天皇として血の繋がりを作り出し、万世一系天皇支配を維持している

しかし史実は、応神は百済の王子・昆支が済(ホムタマワカ)の入り婿となったのであり(謎42 )、天皇家は百済王室と一体であると言えるのです。

高句麗の南下に対抗して百済と協力したことは非公式にちりばめるに止めた

 ①崇神が369年に高句麗と戦って勝利したこと、
 ②428年には讃(イニシキイリヒコ)の命により済(ホムタマワカ)が百済  のヒ有王の妹・シセツヒメを嫁にもらったと、
 ③応神は百済の王子・昆支が済(ホムタマワカ)の入り婿となったことなどは、
前期百済系倭国にとって、半島における高句麗との争いが大問題であり、この問題について本家百済と一体であったことを物語っている。 
  しかし 『日本書紀』はこの史実については非公式にちりばめるに止め、公式には百済との関係を断ち切った万世一系天皇支配の維持に努めているのである。


 石渡信一郎著「倭の五王の秘密」、「日本神話と藤原不比等」『百済から来た応神天皇』から学んで、ほぼ全面的に引用し、清水克彦の考えも述べています。

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